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【連載第13回】 (2010年2月17日公開)

歴史像は塗り換えられる。

「歌舞伎」について初心者に講義する際、「出雲の阿国(おくに)」や「傾(かぶ)き者」の説明から始めるのが通例となっているようです。けれども、その当時(十七世紀初頭)の舞台というのは、いま私たちが目にする歌舞伎とは似ても似つかぬものだったでしょう。
(当時の芝居は伝わっていませんし、もちろん上演もされていません
 
現代人が歌舞伎にふれて強く印象づけられるものに「女形」の存在がありますが、阿国は女優(つまり女性)であって女形(男性)ではありませんでした。歌舞伎俳優の片岡我當さんは、「念仏踊り」を踊ったことで出雲の阿国を歌舞伎の祖と呼ぶのなら、一遍上人の踊り念仏(十二世紀)こそが歌舞伎のルーツになると持論を述べています。
 
■歌舞伎は十八世紀以降に完成した音楽劇
 
今われわれが歌舞伎と呼んでいるものは、十六世紀に大坂湾岸に渡来した「三味線音楽」の普及によって、十八世紀以降に完成した音楽劇です。なかでも大坂の地で発達した「義太夫節」が伴奏音楽として定着してからの作品が、歌舞伎の最重要演目となってきました。その証拠に、歌舞伎の三大傑作とされる『仮名手本忠臣蔵』『義経千本桜』『菅原伝授手習鑑』などの時代物(じだいもの)は、すべて十八世紀中頃の大坂で作られています。町人が主役となる世話物(せわもの)に到っては、主に幕末頃(すなわち十九世紀)の大坂や江戸の市民風俗が背景となっており、だから落語の世界とも時代風俗が重なって現代人に親しみやすいわけです。「回り舞台」や「セリ」など独特な歌舞伎劇場の構造も、十八世紀の道頓堀の劇場で続々と発明されました。(なにしろ1724年以前は屋内の劇場ではなく、吹きっさらしの野天の小屋で上演していたのです)
 
それなのに、学校でもカルチャーセンターでも、歌舞伎草創期(といわれる1600年頃)から、せいぜい元禄時代(1700年前後)頃までの演劇史が講義の主体となって、歌舞伎というものが説明されているのは困りものです。受講生のレポートを読むと、インターネットから孫引きしたらしき「出雲の阿国」「傾く」「若衆歌舞伎」といった文字が、おそらく何の実感もないままに並んでいます。現行の歌舞伎はそれらの後に成立した演劇形式だということを知らないのでしょう。
 
「歴史」というのは、しょせん「言葉」で書かれるものです。戦国時代(十六世紀)に「かぶき者」という言葉があり、それが阿国の時代になっても使われていたという理由で歌舞伎の祖とされているだけのことかもしれないのです。
 
■「安土桃山時代」は「大坂時代」
 
織田信長と豊臣秀吉の時代を指す「安土桃山時代」という言葉があります。
 
「鎌倉時代」「室町時代」「江戸時代」といった、日本史における時代区分の呼称は、明治の終わり頃(つまり二十世紀に入ってから)に東京大学の史学科が定めていったものです。鎌倉や江戸といった、各時代の行政首都(キャピタル)が置かれた土地の名を冠せて呼ぶようにしたわけです。それなら、大坂城に政治首都が置かれた秀吉の時代は「大坂時代」と呼ぶのが正しいはず。なのに、どうして「桃山時代」なのでしょう?
 
 「桃山」とは伏見のことを指しているのでしょうけど、伏見城は秀吉の隠居所というか別邸であって、豊臣政権の本拠地ではありませんでした。しかも秀吉の在世時に桃山という地名などはなく「松原山」などと呼ばれていたことが判明しているのです。(桃の木を植えたのは徳川家康の時代になってからということです)
また一方、「安土」というのは、信長が安土城を築いた時代をさしているわけでしょうが、信長は天下統一を果たす前になくなりましたから、本当は「安土時代」と言い切るのも無理があるのです。
 
調べてみると、なんと、明治末期、安土時代と命名してもらうよう、滋賀県の郷土史会が東京へ陳情に出かけていたのです!
 (最近も歴史学者たちの反対を押し切って滋賀県は「大津京」というJRの駅名を強引に付けました)
 
■「淀君」は「淀殿」、「石山本願寺」は「大坂本願寺」
 
秀吉の側室となって秀頼を産んだ女性は「淀君」と呼ばれます。この呼び名は徳川時代になって意図的に付けられたものらしく、生前は「淀殿」と呼ばれていました。それをあたかも遊女のような呼び方にして貶めようとの悪意から言い換えられたようです。
 
大坂城の前身、蓮如上人の御坊(一四九六創建、この折に「おおさか」という地名が登場)に始まる寺内町は「石山本願寺」とよく書かれていますが、そんな呼び方もありませんでした。正しくは「大坂本願寺」。何も歴史を知らない人は、「石山」と聞いて、もしかして滋賀県の石山寺のことかと勘違いしてしまいそうです。
 
四~五世紀、大阪平野に巨大古墳がたくさん築造されます。それらに葬られた(とみられている)応神天皇や仁徳天皇は、難波(なにわ/大阪)に都を置いたと史書に書かれているにもかかわらず、「大和時代」という名で片付けられています。
 
七世紀の中頃にも十年近く孝徳天皇の都が大阪に置かれて、この難波宮がのちに天武天皇の副都ともなるのですが、この時代は「飛鳥時代」の名で統一されています。
 
うっかり放っておくと、「歴史像」はどんどん塗り換えられてしまうということです。そんなふうにして歴史の記述からいつしか忘れられていった事蹟は限りなくあることでしょ う。
 
■大坂の懐徳堂から発した知のアカデミズム
 

 江戸時代、現代のカレッジに当たる藩校は全国にありましたが、大学(ユニバーシティ)に当たるものは、江戸の昌平黌と大坂の懐徳堂―この二つでした。懐徳堂は、フィロソフィーやサイエンスなど広い領域に及ぶ、第一級の学者を数多く輩出した<知の総合大学>でした。そんなアカデミズムの系譜は大阪大学に継承された形ですが、京都大学の前身となった旧制三高の前身も大阪・大手前にあったというのを御存知でしょうか。
 明治二年(1869)五月、大阪府によりオランダ人科学者クーンラート・ウォルテル・ハラタマを教頭とする舎密局(せいみきょく)が開設されました。舎密とは化学(chemistry / オランダ語)の意で、明治時代のわが国で最初に開かれた理化学校でした。ここで近代化に必須の自然科学の教育が行われたのです。日本の初期の科学研究の多くはこの舎密局に端を発しています。舎密局はその後、理学校と改称され、この流れが第三高等学校となり京都大学となった次第です。
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「古都おおさか」をもっと掘り起こしてみようではありませんか。
 
ーお知らせー
 
「人形浄瑠璃街道フェスティバル」

■日時 3月21日(日)13時開演(12時半開場)
■会場 脇町劇場オデオン座
    徳島県美馬市猪尻西分140-1
 基調講演 : 河内厚郎
 公  演 : 「三番叟まわし」「戎かき・えびす舞」の競演
「傾城阿波の鳴門 巡礼歌の段」
 
 
「河内厚郎対談シリーズ この人に聴く」噺家・林家染丸さん

4月18日(日)13時~15時 NHK文化センター西宮ガーデンズ教室「河内厚郎対談シリーズ この人に聴く」は、上方落語界の重鎮・林家染丸さんを招きます。天満繁昌亭の成功や、NHKの朝のドラマ「ちりとてちん」などで活気づいた上方落語、その大阪の「噺」の歴史、魅力、聞きどころなどを、縦横に語り合います。

        

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まだ決して手遅れではない。

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