2012. 2. 6
亀川 秀樹
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【連載第12回】 (2010年1月17日公開)
日本人はホントに血液型の話が好きです。
私も血液型について話し始めると、いっこうに飽きません。ただ、日本人の血液型論議に一種のパターンのようなものが見られるのが、私には不満なのです。
日本のテレビ番組にクイズ番組がたいへん多いのは今さら指摘するまでもありませんが、あたかも切り取ってきた断面のように「静止」した解答を求めたがる傾向が日本人にあるというのが問題です。たとえば川の流れを眺めて楽しむにしても、流れのうつろう風情だとか、月の光を反射する水面の綾といったものに日本人は敏感に反応しますが、その流れのルーツが何処にあるのか、また何処へ流れていこうとしているのかといった、根本的・本質的なことに日本人は鈍感というのか、わりあい無頓着です。ですから、血液型をめぐる性格論議についても、まるで鋳型にはめて切り取ってきた解答を求めるかのように、性格と血液型が当てはまるという具合に考えがちなのではないでしょうか。
しかし、人間の性格というものは、形容詞のように静止した形で切り取って表せるような代物ではないと私は考えるのです。人それぞれの人間性を具体的に捉えるには、この人の心には一体どういった気持ちの働き方が起こりがちか、この人は物事についてどういう決定の方向を示したがるのか、そもそもどんな動機(モチーフ)を秘めているタイプなのか―そういった「動的」な要素こそがポイントではないかと、私は言いたいのです。
■水源を探ること
<源氏物語の語りべ>として人気を博した村上リウ(故人)という女性がいました。彼女は生前、日本人よりむしろ外国人のほうが源氏物語の作者の気持をズバリと掴んでいるようだと、よく語っていたものです。それは、日本人が物語の雰囲気やこまごまとした情景や風情に関心がありすぎて、現象というものに捉われてしまう風があるということなのです。目の前のトリビアルな現象ばかり追いかけ、その現象がどこから来るのかといった、事の本質を探求する力に乏しいということになるわけです。昨今の迷走する国内政治についても、政局の表面的な現象だけを捉えがち。ジャーナリストにしても、現象の報告はするものの、その現象がどこから来たのかといった原因を突きつめて探ろうとしない。新しいニュースが出てくると、古いニュースをすぐ忘れる―それと似たことが「源氏物語」ブームにも言えるというわけです。川の流れが美しいとか、滝のようすがどうとかではなく、その水源を探ること、この大河小説の源を探ることこそ私たち近代人の役目ではないかと、熱っぽく私に村山さんは語ってくれたものです。
■近松門左衛門はA型
その「源氏物語」の主人公である光源氏という貴公子は、典型的なO型人間の男性のように見受けます。いわゆる八方美人で、頼られると断れず、実際に面倒見もよい。けっこう負けん気はつよくて、自己主張もはっきりとありますが、案外とワキが甘く、ツメも甘い。
一方、近松門左衛門の心中劇に登場する主人公のほとんどはA型人間ではないかと私は想像して楽しんでいます。門左衛門その人もたぶんA型だったでしょう。
だいたい日本人の行動パターンというのは、A型的です。「手順」「だんどり」を重んじる律儀な完璧主義者が多く、それがうまくいかないと、キレてしまいがち。近松作品の主人公たちも、わかっちゃいるけどやってしまう、という具合に破滅していくパターンをとるからです。そして、いったん状況が破綻してしまうと、今度はパッと切り換えて黙々と復興に励む―そんな日本人の自然順応的な職人気質は、昔も今も基本的に変わっていないのではないでしょうか。
■モノと心を通わせる
村上春樹氏(A型)に『ノルウェイの森』という、いたってシンプルな筋立ての恋愛小説があります。あの小説が何故あれほどまでに日本人の心を捉え、空前のベストセラー作となったのでしょう。ひとつには、そこに「職人の恋」が描かれたからではないかと、私は想像しています。
―女は男にたえず質問を浴びせかけます。源氏の君のように巧みな返事をかえせば済むところを、うまい嘘などつけず、ただ寄り添うことしかできない男。演劇的な言辞でサービスすることが男にできなかったということが、若い男女を悲劇に到らせるのです。
女は精神を病んで自殺。傷心の旅に出た男が放浪先で何げなく手にする大工仕事らしき作業の描写は、読む者の心に不思議な感動を呼び起こします。ひたすらモノと心を通わせてきた人間(これはオタクにも通じるでしょう)が、矛盾に満ちたヒトという生き物と言葉を通わせようとすることの難しさを描いたという、この単純で痛切な真実が日本人の心を揺り動かしたのかもしれません。
かくいう私は、O型人間です。

2010. 1. 17 (日)
【最終回】 (2010年3月18日公開)