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【連載第11回】 (2009年12月17日公開)

森繁久弥と宝塚


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新年1月2日(土)~1月15日(金)、シネ・ヌーヴォで、「映画文芸散歩」と題し、『夫婦善哉』(豊田四郎監督、織田作之助原作)をはじめ、森繁久弥の主演した代表的な四作品が上映されます。
 
森繁久弥の死を報じるニュース報道は、どれも「大阪・枚方に生まれ、早稲田大学を中退…東宝劇団を経てNHKに入り、旧満州でアナウンサー…」といった調子で始まり、つづいて戦後の舞台や映画、ラジオやテレビでの活躍が列挙されるという具合で、森繁が育った街のことは紹介されませんでした。大正二年(1913)生まれの森繁は、大正七年から少年期を送った阪神沿線の鳴尾や今津を「我が故郷」と記しているのですが―
 
平成九年(1993)、西宮市鳴尾小学校(明治六年開校)の創立120年周年記念に、森繁久弥は長さ1.5メートルの巻紙の手紙を母校に送りました。そこには、「枝川の清き流れに鮎つかみし うない(幼少)の頃」で始まり、「一面に紅の輝く」イチゴ畑でイチゴを盗み食いして怒られたこと、小型飛行機がイチゴ畑に墜落した事故など、当時のみずみずしい体験が毛筆でつづられているのです。武庫川の支流だった枝川の一部が埋め立てられると、「無残やな いとほしき川は水が止りやがて天を摩する高層建築は成り人これを呼んで甲子園という」と、一変した故郷を惜しむくだりもあります。大正十三年(1924)に完成した甲子園球場が、森繁少年には摩天楼のように思えたのでしょう。懐中時計を磨きながら生真面目な指導をした恩師の「平野先生」、将棋が上手だった同級生の「瀬川」なども、この手紙には登場します。
 
森繁はこの鳴尾小に五年生まで通った後、大阪市内の堂島小学校に転校します(堂島小ではのちに高名な演出家となる武智鉄二と同級でした)。そして名門・北野中学へと進学しますが、それでも鳴尾への思いを「心のふる里である。北野中に入ったが、私たちはまだ、その鳴尾にいたのだ」と手紙を結んでいるのです。(当時の北野中学は、現在、梅田芸術劇場の建つ場所にありました。平成四年の開場公演―当時の劇場名は「劇場飛天」―で、森繁は「わが母校の地に建つ」と祝辞を読みあげています)。
 
■宝塚映画に出た頃は実に楽しかった
 
昭和初期、阪神沿線で時代劇のロケが盛んに行われていたことを追想して、森繁は書いています。「こうじの香りのほのかにたゞよう西宮の酒倉の暗い細い露地を、阪東妻三郎や大河内伝次郎が三尺を抜いて、寄らば切るぞと走ったのである・・・そんなロケーションは必ず西宮の由緒深い港に建つ古色蒼然たる障子の入った黒い板の燈台を撮影して行ったことを覚えている」(西宮市『広報グラフ』に寄稿した「西宮今昔」より)。
 
のちの名優モリシゲの原点はここにあったのかと推察されるくだりですが、これは現存する日本最古の木造燈台、今津灯台(大関酒造が管理)のことです。そんな懐かしさもあってか、戦後に俳優として成功してからも、西宮のヨットハーバーに自艇を停泊させて梅田コマ劇場や宝塚映画に出演したり、大阪湾を一望に見下ろす芦屋六麓荘に家を求めようとしたものの既得権に妨げられて叶わなかったり(松竹新喜劇の名優だった藤山寛美は、『屋根の上のヴァイオリン弾き』で貧しいユダヤ人を演じながら、実人生では豪奢な生活を娯しむ森繁を、あたかも偽善者のように批難したものでしたが…)といった昭和30年代、森繁久弥は宝塚映画にたびたび出演しています。
 
大阪・九条で「市民の映画館」シネ・ヌーヴォを主宰する影山理氏の協力を得て、私が実行委員長を務めてきた「宝塚映画祭」も十年目を迎えました。今年の映画祭で上演された『暖簾(のれん)』(山崎豊子のデビュー小説が原作)や、『世にも面白い男の一生 桂春団治』など、森繁の主演した「大阪物」は、宝塚映画の中でも秀作とされているものです。「宝塚映画に出た頃は実に楽しかった」と森繁がよく述懐していたというのも、故郷の傍の撮影所という格別の思いがあったに違いありません。
 

■東の「大船調」、
西の「宝塚調」



私は子供の頃、町内に「宝塚映画」の俳優さんが住んでいたこともあり、おのずとそのスタジオへ遊びに行くようになりました。高島忠夫らが専属となり、関西時代の森光子なども出演していました。
 
宝塚における映画製作は、昭和十二年(1937)、劇中に映画を挿入するキノ・ドラマが好評を博したのに始まり、翌年には大規模な映画専用スタジオが建てられました。その翌年、歌劇団に「映画課」が設けられて劇場用映画が製作されるようになりますが、戦時体制下、政府が映画会社を統合させたことにより宝塚映画撮影所はいったん閉鎖されます。
 
昭和二十六年(1951)、阪急電鉄の全額出資で「宝塚映画製作所」が設立され映画製作が再開されましたが、二年後の火災で撮影所は全焼。西宮北口の仮設スタジオで撮影が続けられました。中村扇雀(現・坂田藤十郎)が宝塚映画の専属となり、歌劇の娘役スターだった扇千景と結ばれたのは、この西宮時代のことです。その間に宝塚では元の場所に新スタジオの建設が進み、1956年、かまぼこを四つ重ねたような屋根で二つのステージが入る新スタジオが完成。俯瞰撮影も可能という、当時としては破格の屋内スタジオでした。
 
ここでは五百人以上のスタッフを抱え、『小早川家の秋』(監督・小津安二郎、阪急「十三」駅での深夜ロケが話題に)や、『放浪記』(林芙美子・原作、高峰秀子主演)など日本映画史上に名を残す名作、『ジャズ娘乾杯』『恋すがた狐御殿』(美空ひばり主演)などの音楽映画、『サザエさん』シリーズ(江利チエミ主演)などの喜劇、嵐寛寿郎の『鞍馬天狗』シリーズなど時代劇、加山雄三の『姿三四郎』『若大将』シリーズといった青春物、『花のれん』のような文芸物……1978年の『お吟さま』まで、176本の劇場映画が製作されたのです。(それ以降はテレビ映画が主となり、大森一樹や黒沢清といった、当時は若手の監督たちが、80年代、宝塚でテレビ映画を製作しています)
 
1953年に松竹・東宝・大映・日活・東映の映画会社は互いに俳優や監督を引き抜きあわないという「五社協定」を結びましたが、宝塚映画はこの協定に加わらなかったため、多くの監督・俳優が自由に仕事ができ、東の「大船調」に対する西の「宝塚調」と呼ばれる独自の世界をつくりあげたのでした。若き日の藤本義一も、このスタジオで働いていました。
 
この宝塚映画製作所の作品は、東宝の映画館に配給されていました。というのも、阪急電鉄や宝塚歌劇団をつくった実業家・小林一三(1873~1957)が、東京に進出してつくった興行会社が「東宝」(すなわち塚)だったからであり、阪急東宝グループと総称されるゆえんでもあります。
 
■〈果て〉の哀傷を色濃く漂わせる森繁節
 
森繁の話に戻ります。
ミュージカルという劇のスタイルに日本が市民権を与えたのは、森繁がテヴィエ爺さんを主演した、東宝ミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』のヒットからだと言われています。広大な大地を舞台にユダヤ人の農民一家が離散していくというドラマですが、それまでの輸入ミュージカルと違って、台詞が「翻訳調」に聞こえなかったことが成功因でした。
 
そこには森繁がアナウンサーとして鍛えた朗読術も無視できません。森繁が戦争中にNHKのアナウンサーをしていたのは旧満州の新京(現・長春)でしたが、そのとき奥地のほうまで赴いた経験が、「さいはて」の哀愁をしみじみ表現する、森繁節の下地になったと推察できるのです。『屋根の上のバイオリン弾き』の主題歌「サンライズ・サンセット」や、「月の砂漠」「知床旅情」など、<果て>の哀傷を色濃く漂わせる森繁節というのは、ロシア民謡やジプシーの旋律を昔の小学唱歌や満州唱歌などがアレンジしたものではなかったでしょうか。西欧とは異なるユーラシアの音楽性・叙情性というものがあり、日本人に郷愁を感じさせる旋律とリズムの秘密はそのあたりに潜んでいるかもしれません。
 
■ロシア革命や第1次大戦を逃れた音楽家たちが、関西で西洋音楽を広めた。
 
東京での洋楽の普及は上野の音楽学校(現・東京芸大)が担いました。こちらは西欧直輸入の音楽が主でしたが、関西で西洋音楽を広めた人々には東欧スラブ系の音楽家が多かったのです。
大正から昭和初期、ロシア革命や第一次大戦を逃れた音楽家たちが、シベリア・満州を経由して続々と来日、大阪湾岸の町に定住していきました。ピアニストのルーチン。その異父弟のヴァイオリニストで、多くの日本人音楽家を育てたモギレフスキー。大阪出身の作曲家、貴志康一(今年は生誕百年)にヴァイオリンを指導したウェクスラー。指揮者のラスカ(宝塚交響楽団指揮者)やメッテル(NHK大阪放送局の設立したJOBKフィルハーモニックの指揮者で、大阪フィルを率いた朝比奈隆や、歌謡曲の作曲家となった服部良一の師)、その夫人で宝塚歌劇団の舞踊教授だったオソフスカヤといった人々が住んだ洋館の一部は、今も阪神沿線の深江に残っています。
 

1月11日(月・祝)、「近松二十四番勝負(世話物) お夏清十郎 五十年忌歌念仏」を企画プロデュースしています。南条好輝・三島ゆり子の語り芝居です。第二部のトークには私も出演します。15時開演。兵庫県県立芸術文化センター小ホール



1月15日(金)、第46回「なにわ芸術祭」新進落語家コンクール(産経新聞社・上方落語協会主催)の審査員を務めます。平成八年の第一回目から審査員を務めているのは私だけとなりました。18時開演。ワッハ上方

        

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