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【連載第10回】 (2009年11月17日公開)

「下町」よりも、あえて「上町」を

大阪ほど、自分の来歴を語らなく(語れなく)なった大都市というのは、世界中を探しても、ちょっと他に見当たらないのではないでしょうか。
私は、過去に、十数年もの間、大阪市の新任職員研修の講師を務めたことがあります。千数百年にわたる大阪の歴史と文化を概略で説明するという講義でしたが、大阪に都が置かれたことなど知らない若者がほとんどで、ここからの意識改革がまず求められると痛感させられたものです。
 
■大阪のように「商都」や「工都」を看板に掲げなかった京都
 
古代には港町(ときには首都)として栄え、中世には宗教都市(四天王寺・本願寺…)の相貌を呈し、豊臣時代には政治軍事首都、徳川時代には商都として繁栄、文芸や芸能の中心地ともなって、そして近代には工業都市ともなるという具合に、大阪は時代ごとに大きく街の顔を変えてきました。
それなのに、「天下の台所」(商都、物流拠点)や「東洋のマンチェスター」(工業地帯、煙の都)といった、或る特定の時代に繁栄した産業基盤によりかかったキャッチフレーズを安易にアイデンティティに据えたため、産業構造がダイナミックに転換する今のような時代に大阪はうまく対応できなくなってしまっているのでしょう。
一方、京都も、古くからの商業都市であり、内陸型の工業都市でもありながら、大阪のように「商都」や「工都」を看板には掲げず、あくまでも「古都」「文化都市」を押し出すことで、企業や商店のブランドイメージを押し上げてきましたが、これは明らかに経済的メリットにもつながっています。
時代々々に栄えた産業よりも、時代を超えて継承されてきた文化のほうにアイデンティティを置くなら、風土としての特性や潜在的な地域の記憶をたえず意識することになり、そこで生き抜く自覚を住民に促すことにもなって、ひいては新たな経済の活力にもつながっていくということです。
大阪も足元のヘリテージを再検証すれば、まだまだ宝の山が埋もれていると気づくはずなのに―(大阪市東淀川区の大学へ講演に行った折のこと。その住所が「大隅」とあったので、もしや『日本書紀』に出てくる応神天皇の難波大隅宮(なにわおおすみのみや)ゆかりの地では、という話をしてみました。女子学生は興味を示してくれましたが、学長も、職員たちも、私を斡旋した広告代理店の社員も、まったく反応を示さなかったものです)
 個々の歴史や文化はそれなりに知られていても、それらの有機的つながりというか、全体の体系が捉えられていないのかもしれません。
 
■大阪の原風景
 
大阪湾岸における最古の祭として文献に登場する八十島(やそじま)祭は、天皇が即位した翌年、宮中の神殿に仕える女官が、天皇の衣を難波(なにわ)の海岸で振るという儀式でした。
八十島とは日本の国土を示す古称で、八十島祭は平安初期の850年から鎌倉時代の1224年まで行なわれていたことが文献から判明していますが(平清盛の妻である時子も安徳天皇の即位時この大役を務めています)、海に臨む難波に都が置かれていた時代から存在した可能性もあります。
 
海から生命力をもらうため天皇みずから岸辺に立って着物をひらひらさせたかもしれないという往時の風景を想像してみるに、あたかも船の先端で両手を広げるハリウッド映画『タイタニック』のシーンさながらではなかったかとは、天神祭に詳しい高島幸次氏(大阪天満宮文化研究所研究員)のロマンチックな想像です。八十嶋祭の行なわれた難波祝津(はふりつ)宮の伝承地としては、尼崎市扶桑町(波洲橋)のあたりだという説があります。
そのときに祀られた神様は生島神(いくしまのかみ)と足島神(たるしまのかみ)で、現在、この両神を生国魂(いくたま)神社(天王寺区)が祀っています。「生国魂」という社名からも明らかなように国土の生成に深くかかわる社殿が、上町台地から下界の島々を見おろす場所に建てられたのは偶然ではないでしょう。
 
ここで、古代の湾岸部の地形を思い描いてみますと―南方の和泉台地から海に突き出した岬(現在の上町台地)の周りには、淀川や大和川が運んだ土砂が大小の砂州(デルタ)を形づくり、難波八十嶋(なにわやそしま)と呼ばれていました。都島・中之島・堂島・福島・松島・江之子島・出来島・四貫島・姫島…大阪市内低地から尼崎市にかけての、島のつく地名群はその名残りです。安閑天皇のときに牛が放たれ、応神天皇が大隅宮を置いたと考えられている大隅島も、そんな八十嶋の一つでした。
そんな島々を眼下に見おろして上町台地に宮居した帝王たちには、海に浮かんだ八十嶋の風景が、あたかも海中から陸地が湧き出たような風景として目に映ったのではないでしょうか。八十嶋のはるか先には、国生み神話のふるさととなる淡路島が浮かんでいるのです。
古事記の「くらげなすただよえる」といった記述が表すように、海に漂うかのような渾沌としたクニが、言葉の呪力によって一つの意志をもった国家へと統合されていく歴史のダイナミズムに思いを馳せてみるのも興味深いではありませんか。八十嶋のひとつ、姫島の地(大阪市西淀川区)で、乙女の屍に悲嘆して詠まれたという「妹が名は、千代に流れむ姫嶋の、子松が末に苔むすまでに」(『万葉集』巻二の挽歌のひとつ)という歌がありますが、この歌をのちに日本の国歌となる『君が代』の本歌(もとうた)と見倣す有力説があることも指摘しておきましょう。
 
■古都おおさか
 
この難波の地に、七~八世紀、孝徳天皇のや難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみ・前期難波宮)や聖武天皇の難波宮(後期難波宮)が造営されました。
「長柄豊碕」とは、長い柄のように海に突き出した岬といった意味になるでしょうか。今も長柄や豊崎という地名が大阪市北区に見られます。難波長柄豊碕宮は、『日本書記』に「たとえようもなく美しい」と記されており、井上靖の歴史小説『額田女王(ぬかたのおおきみ)』にはこの宮殿の完成の様子がロマンチックに描かれています。
すでに推古朝の時代、わが国初の官寺である四天王寺が建立され(593)、大道(だいどう)という最古の国道(官道)が通ったという難波には、三種の神器に必要な「玉」を作る玉作部(たまつくりべ)などの職人集団が住み(「玉造」という地名のルーツです)、都城の建設に必要なインフラ整備が整いつつありました。
難波長柄豊碕宮(651)は、それまでの宮とは隔絶したスケールをもつ、本格的な中国風の宮殿建築を誇りました。西に海を望む宮殿は、四天王寺の五重の塔と並んで、海外からやってくる賓客に新生国家の偉容を見せつけたことと想像されます。
この七世紀中葉に建てられたわが国初の本格的な宮殿建築の遺構は、大阪城の南、法円坂にあり、国の史跡に指定されています。天皇が政務を執った太極殿の基壇が復元されて、御所のゲートにあたる朱雀門の遺構も発掘されました。大化の改新から三年後の648年を示す「戌申年」の文字が書かれた木簡や、万葉仮名で書かれた七世紀中葉の木簡、さらに周囲に回廊跡がある高床建物跡も見つかりました。難波宮の東に広がる河内湖を望む崖の上に当時は建っていたらしく、外国使節をもてなす迎賓館のような施設だった可能性もあると考えられています。
 

大阪歴史博物館とNHK大阪放送局の地下室では、ガラス越しに、難波宮の礎石を見ることができます。すぐ傍からは仁徳天皇の高津宮の時代らしき高床式の遺構も出土しており、NHK大阪放送局(BK)と大阪歴史博物館の南側に復元されました(高津も今なお大阪の都心に残る地名です)。



また、大阪天満宮の境内にある多くの末社が南向きなのに、社前の石畳だけが西北を向いているのは、天満宮の前身である大将軍社が長柄豊碕宮を守っていたときの方角の名残りだと考えられており、「石ばしる垂水(たるみ)の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも」(『万葉集』志貴皇子)と歌われたのは、狭い湾口をはさんで難波の対岸にあった垂水の地(現・吹田市)のことだとされています。旱魃で井戸や河川が枯れた折、ここの水を長柄豊碕宮へ高樋で送ったといわれているところです。
 
「都島」という地名も、難波宮付近にあったことから命名されたという説と、難波宮の向こうの地であったことから「宮向島(みやこじま)」と称したという二説があります。
 
■古代都市の記憶<
 

そんな古代都市・難波京の街割が、上町台地には現代まで伝わっているのです。大阪市天王寺区の勝山・国分町あたりの一辺約265メートルという正方形の街区がそれです。難波京の十四条目に相当する東西道路を西へ向かうと四天王寺の東大門(東門跡)に至りますが、発掘調査の結果、四天王寺の東門は、難波宮と同じく七世紀中頃に造営されたことが判明しました。付近では八世紀の井戸から七世紀の瓦が出土しています。



難波宮の中軸線を朱雀門からそのまま南へ延ばす形で敷かれた朱雀大路(都大路)は、現在の近鉄奈良線のガード下あたりを抜ける道でした。推古天皇の二十一年(613年)に難波から飛鳥に至る道をつくったと『日本書紀』に記述のある、この大道が難波京の朱雀大路に転用されたらしく、四天王寺付近に残る「往大道」という小字名や「大道」という町名が、そこから大道が始まることを示す地名だとするなら、このあたりが難波京の南端だったことになります。
天武天皇の八年(679年)には「難波に羅城を築く」という記述が日本書紀に出てきます。羅城とは都の周囲を囲む城壁のことで、朱雀大路の延長線上に、都のゲートとなる羅城門(羅生門)があったと推定されています。環状線「寺田町」駅の近くに残る「南門」という子字名のあたりがその羅城門の跡でしょうか。たしか羅城(ライセイ)という小字名もかつては残っていたようです。
現在、四天王寺の南門から東南へ下り、JR「寺田町」の高架下を抜けていく大道は、上町台地からまっすぐ南下して、今の住吉区と東住吉区の境を通り、大和川を渡って松原市と堺市の境を進みます。前者は摂津国と河内国の、後者は河内国と和泉国の国境線になります。(摂津・河内といった国郡里制は701年の『大宝律令』で定められました。河内国の南西部が独立して和泉国となる757年頃から、摂津と和泉の国境の辺りを「さかい」と呼んでいたらしく、これが「堺」の語源でしょうか)。
そして大道は、反正天皇の宮があったという丹比(たじひ)あたりで東へ折れ、敏達・用明・推古・孝徳の各天皇や聖徳太子・小野妹子らの墓所が鎮まる磯長(しなが)の「王陵の谷」へと続きます。旧・大和川の自然堤防に沿って現在の国道二十五号線に近い行程で、大和川・今池遺跡では両側に側溝をもつ古代道路の跡が発見されており、溝と溝の間がほぼ18㍍と広いのが官道の証拠とされています。
 
■上町台地は、大阪の原点であり、日本最古の都市遺跡
 
上町台地こそは、大阪の原点であり、日本最古の都市遺跡です。わが国最古の橋(猪甘津(いがいづ)の橋、小橋・鶴が橋とも呼ばれました)が架けられ、最古の官道(国道)が通り、初の本格的な宮殿(難波宮)が築かれた「古都」としての蓄積のうえに、中世の寺内町(石山の本願寺)、近世の城下町(大阪城)も築かれていったのでした。
国際貿易都市・堺の名が宣教師によって西洋へ伝わった中世末期、上町台地にそびえる浄土真宗の本山で、「水上の御堂」と呼ばれた大坂本願寺の寺内町(明応五年すなわち1496年、この地を訪れた蓮如上人が建てた御坊に始まります。大坂という地名もこの時に登場します)は、清水谷のあたりを南限として、上町台地の北部分に十町はありました。これを退去させて上町台地の北端に大坂城を築いた豊臣秀吉は、はるか南へと延びる首都建設に着手します。
天正十一年(1583年)の宣教師ルイス・フロイスの報告書によると「(秀吉は)市を拡張して大坂より3レグワ(約17キロ)を隔てた堺の町まで続けようとしている…家屋は既に約2レグワの天王寺付近までできた」ということです。
当時は大和川が上町台地の北側に流れこみ、今のように大阪と堺を隔てていませんでしたから、この構想が実現していたなら、大阪からまっすぐ南へと延び、東へ折れて飛鳥へと向かう、わが国最古の国道が近世の都大路としてよみがえっていたかもしれません。
その南北の道は埋もれてしまいましたが、東西の道は現在の堺・大小路を起点に復活、河内平野を貫いて竹内街道と呼ばれました。
 
■「下町」よりも、あえて「上町」を押し出す
 
私は、昨年に創立120周年を迎えた、追手門学院の客員教授に就任しました。といっても教室で講義をするわけではなく、大阪城・難波宮跡・四天王寺などがある上町台地の歴史・文化を対象にした「上町学(古都おおさか)プロジェクト」に取り組んでほしいという要請を受けてのことです。大阪の観光資源の開発を進める関西経済同友会と連携し、上町地区に世界遺産登録をめざす市民運動にむけて調査研究面から支援していくのが目的です。
追手門学院の名称は、建学の地である大阪城の表門(追手門)に由来し、小学校と同学院大手前中・高校のキャンパス(大阪市中央区大手前)は大阪城三の丸に位置します。近年、大阪城公園を訪れる外国人観光客はふえる一方ですが、この巨城とその歴史について、私たちはどれほどのことを知っているでしょうか。
追手門学院では、2006年から3カ年計画で大阪城の自然や生態について総合調査などを含めた「大阪城プロジェクト」を実施してきましたが、さらに記念事業の一環として昨年四月、同学院大手前中・高校の新館が完成し、その六階フロアに学院の共同施設「大阪スクエア」が設けられました。
一方、関西経済同友会も、「古都おおさか」の魅力を発信していくための調査活動を展開してきた結果、大阪城のみならず、大化改新にともなって造営された難波宮、日本最古の官道である「難波大道」(難波京の朱雀大路でもありました)、最古の官寺である四天王寺、歌舞伎名優の墓所が密集する中寺町など、上町台地にある数々の由緒あるスポットが浮かび上がりました。空堀(からほり)界隈には戦前からの町家を活かしてデザインされた観光スポットも形成されているため、同友会としても「上町学」の設立を提案、追手門学院の調査・研究を支援することを決めたという次第です。
この「上町学プロジェクト」は、既に市民サイドで展開されている文化事業と連動しつつ、昨年十二月から再来年三月末までの約二年四ヵ月の予定で実施、座長は河内厚郎が務めます。具体的活動としては、
 
①能や浄瑠璃、歌舞伎の舞台となった場所を散策したり、上町台地に在住・ゆかりの文化人(ミステリー作家の有栖川有栖氏など)を招いて市民向けのトークショーを開催していく、大阪城スクエアを中心にした「上町再発見講座
 
②上町の作品化事業・・・上町台地を舞台とした新作の能・狂言などの製作、文芸・映画作品や絵画、写真などのデータの収集。歴史年表や上町ブックレットの出版、「難波大道」を観光ルート化してマップを作製
 
③大阪城公園を核とした歴史・観光コースの策定と海外向けマーケティング・・・などをあげています。
 
とかく昨今の大阪は「下町」を売りがちなのに対し、あえて歴史の表舞台としての「上町」を押し出そうという狙いもあります。
阿倍野や住吉を走る阪堺電車が、上町筋を北上して大阪城公園まで延伸されれば、大阪城―四天王寺―住吉大社を巡る路面電車になることでしょう…そんな夢も見たいものです。

        

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