2012. 2. 6
亀川 秀樹
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【連載第9回】 (2009年10月15日公開)
九月の連休は横浜ですごしました。OSK日本歌劇団の元メンバーを主に、宝塚歌劇団に在籍したメンバーも加わるという一座で、私の企画したミュージカルを、旧ドイツ人居留地の<ゲーテ座>という劇場で上演してきたのです。
OSKとは大阪(O)松竹(S)歌劇団(K)のことです。「歌のタカラヅカに、踊りのOSK」と並び称せられた、そのエネルギッシュな舞台は、近鉄劇場での公演が始まった頃から観ていました。その昔、千日前にあった大劇(現・NGK)のステージもかすかに覚えてはいますが、直接のおつきあいが始まったのは、2003年のこと。近鉄に支援を打ちきられて解散に追いこまれるOSKを特集した『クローズアップ関西』というNHKのテレビ番組に、私がコメンテーターとして出演してからのことです。
以来、大阪の市民劇団として再生を図る新生OSKとはまた別に、解散時のファイナル公演でトップをつとめた元メンバーらによる新劇団<歌劇★ビジュー>の創立に深く関わってきました。2006年には大阪・住之江のBLACK CHAM BERS(旧・名村造船所)における公演で文化庁芸術祭優秀賞を受け、昨年は姫路菓子博で一か月公演を敢行。11月には小規模ながら中国公演も行います。
■ジョン万次郎に勝るとも劣らない数奇な生涯、ジョセフ彦
天保八年(1837)、現在の兵庫県播磨町古宮に生まれ本荘の浜田で育ったジョセフ彦(幼名・彦太郎)は、嘉永三年(1850)、船乗りだった養父の航海に同行し、江戸見物を終えての帰途、遠州灘(静岡県沖)で暴風に遭います。
その間に、ペリーの来航によって江戸幕府は日本の開国へとふみきります。安政六年(1859)六月、二十一歳になったヒコは、神奈川のアメリカ領事館通訳となり、ハリスに伴われて念願の帰国をはたしました。そして、日米修好条約後の業務や幕府の遣米使節の派遣などに奔走しますが、日本人でありながら髷を切りクリスチャンとなったヒコは、攘夷浪人から狙われて身辺が危うくなり、文久元年(1861)、三たび渡米。リンカーン大統領と握手した唯一の日本人となりますが、南北戦争の動乱をあとに再び日本へ戻りました。
元治元年(1864)、ヒコは、わが国最初の新聞「海外新聞」を神奈川で創刊します。これは、貿易の現状や相場など各国のニュース、アメリカ史略といった読み物、在日外国人の広告などを載せたもので、慶応二年(1866)十二月まで発行され、手書きから木版印刷に移ったのちでも二十六号を数えました。 <NEWS>を<新聞>と名づけたヒコがいなければ、明治になっても「瓦版」の時代が続いていたかもしれません。ヒコが<新聞の父>と呼ばれるゆえんです。
日本人でありながらアメリカ側の人間として扱われ、ふたつの祖国のはざまで揺れ動きつつ、生き抜いた、ジョセフ・ヒコという人物を私が知ったのは、兵庫大仏のある能福寺(神戸市兵庫区北逆瀬川町)の境内で、日本最初の英文の碑なるものを見たときのことです。碑が建てられた明治二十五年からさかのぼること約千百年前、唐への留学から帰国した伝教大師(最澄)の創建になる教化道場(寺)であるといった旨の説明が、英語と漢文で書かれていたのです。(この寺は、海を愛し神戸・福原に都を還した平清盛が剃髪して「淨海」と名乗った寺でもあります)。
この碑を記述した人物の主旨に興味を抱いた私は、鎖国下の日本から、はからずもアメリカへ渡ったヒコという人物について調べるうち、ジョン万次郎に勝るとも劣らぬ、その数奇な生涯に驚き、感動し、いつの日かこれをドラマに出来ないものかと構想を暖めてきたのでした。
■「ベルばら」から白州次郎へ。新しい可能性を切り拓く宝塚歌劇
昨年、宝塚歌劇は、旧三田藩士の末裔として阪神間に育ち、吉田茂首相の秘書官として敗戦後の日本復興に尽力した、白洲次郎を主人公にすえたミュージカルを上演しています。ロマンチックな「絵空事」の世界ばかりでなく、近代日本のリアルな人間群像に歌劇もふみこむようになってきたわけです。
そこには、『ベルサイユのばら』が介在しています。
1974年に「ベルばら」が登場するまでの宝塚歌劇団の約十年間は、アメリカの『ウエストサイドストーリー』の影響を受け、またフランス式のレビューの人気も根強く、面白い舞台が沢山ありましたが、客席には空席がめだちました。というのも、60年代半ばから本場のミュージカルが続々と来日するようになり、63年には越路吹雪と松本幸四郎(当時・市川染五郎)が本邦初の本格ミュージカル『王様と私』を旧梅田コマ劇場で上演しました。それまで「洋風」の独断場だった宝塚のアイデンティティーが揺らぎ始めたのです。
そこに起死回生を担って登場した「ベルばら」は、男性として育てられた女性オスカルが、男の格好をして活躍し、つよい意志で革命に殉ずる一方、アンドレに愛され、愛するというラブロマンスも演じたのです。それは通常の男と女の恋愛ではなく、同志愛でもありました。
こうして、男優の代替物だった男役が、女性の演じる男役でしか表現できない形で登場したわけです。
池田理代子さん(東淀川区うまれ、新庄小学校卒)が「ベルばら」の原作を書いた1972年当時、女性はまだ社会に進出できていませんでした。60年代の高度成長期、男は猛烈サラリーマン、女は専業主婦となるのが一般的で、少女漫画も手塚治虫や石ノ森章太郎が手がけてはいたものの、戦後デモクラシーの中で育った女性たちに、自立を願う気持ちが芽生えていたのでしょう。男性作家の描く、男にとっての在る種の理想的な女性像、優しくて従順で可愛げのある女性ではない女性像が、自立志向の女性たちを刺激したのです。
「ベルばら」の原作が、架空の人物を織り交ぜながら、史実に基づく社会性のある骨太のドラマとなっていたことも、女性の共感を呼ぶ要素だったと考えられます。もっとも、女性が女性のままではなく、男性の格好をしているという点では、そうでなければ男社会には出て行けなかったという過渡期の時代でもありました。
80年代から女性の進出が進み、86年には雇用機会均等法が成立して、宝塚にも女性の演出家が登場し、舞台のありようも多様化していきました。この間、宝塚は「ベルばら」の再演をくり返し、多くの観客を動員してきました。初演時のように大勢の若い女性を巻き込む社会現象にはなっていませんが、少女時代そこに「夢」の世界を見て、やがて子育てをしたり企業で働いたりする中で男社会の中の女性を痛感し、再び絵空事を楽しもうと足を運ぶ観客も少なくない一方、宝塚に「夢」だけを求めるのではなく、リアルな人間像を求めるようにもなりました。
大和和紀など、女性漫画家の作品が続々と歌劇の舞台に取り上げられるようになったことで、歌劇は新しい可能性を切り拓いていったわけです。
2009. 10. 15 (木)
【最終回】 (2010年3月18日公開)