2012. 2. 6
亀川 秀樹
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【連載第8回】 (2009年9月15日公開)
但馬の出石(兵庫県豊岡市)の「永楽館」(近畿最古の芝居小屋)でおこなわれた歌舞伎公演は、中村翫雀・片岡愛之助・坂東薪車・・・大阪に住まいを持つ俳優たちが中心となった一座でした。
私が目を見張ったのは、定式幕が上手(客席から見て舞台の右側)から下手(左側)へ開き、下手から上手へ閉まるという、大阪の伝統的なスタイルでした。これは、上手に座って語る「義太夫」を最後まできっちり客席に聞かせようと配慮する型であり、音楽劇としてまっとうなやり方ですが、昭和10年代から徐々に、大阪も東京式に上手から下手へ閉まるようになっていったようです。
■松本幸四郎の弁慶が本舞台で転倒!?
そこには、こんなエピソードが介在していました。
明治・大正・昭和の三代にまたがって大阪の歌舞伎界に君臨したスーパースター、初代中村鴈治郎(1860~1935、現・中村翫雀の曽祖父。死去の際は大阪の街に号外が出ました)の没後まもなく、東京から来演した七代目松本幸四郎(1870~1949)の演じる『勧進帳』の弁慶が、本舞台から下手へ向い花道へと差しかかるという幕切れの場面で、なんと、下手から逆向きに走ってくる幕引きと衝突して転倒しまったのです!!(東京式では上手から、つまり役者の背後から走ってくる形となりますから、ありえません)。それに懲りたのか、大阪劇場も東京式に上手から下手へ引くことになっていったということのようです。鴈治郎という東京にもにらみのきく巨大な存在を失った大阪の劇界は、東京式を拒否できなくなったというわけでした。
■日本の声楽は、大阪の義太夫節
永楽館では、京阪神の都心部では見られなくなった、その旧来の型が見られただけに、新鮮に映ったのです。(野外では西日本一と言われる丹波篠山の能舞台にしても、出石の永楽館にしても、古くから栄えた城下町でありつつ鉄道の幹線から外れてしまったことが、却って貴重な遺産を残してくれたともいえるでしょうか)。
つまり、それほどまでに、大阪では義太夫の語りというものが重んじられてきたわけです。
では、「義太夫節」とは、いったい、どういうものなのでしょう?
実は、この義太夫節で語られている「浄瑠璃言葉」こそ、近世日本の共通語であり、標準語だったのです。
中世末期。三味線楽器が堺に渡来しました。
それまで日本には、語り物系統の「謡」は存在しても、器楽的な発想から出発した「歌」はありませんでしたが、三味線は、撥絃(はじいて鳴らす)楽器という日本歌唱の特性に合致するリズム楽器でありながら、メロディーを伝える音階楽器の性格もあわせもっていました。三味線は、繊細かつ哀調を帯びた音色で戦国の世に倦んだ民衆の心をいやし、その人間的な感情を解き放ってくれました。
三味線を伴奏とする最古の日本歌曲として堺に伝わる「組歌」は、当時の民謡や流行歌を組み合わせて作られています。今も大阪の邦楽で重要な位置を占める地唄は、洋楽でいえばギタアで伴奏するフォークソングのようなものだったと言えるでしょう。こうした新興の「歌」と、古来の「謡」との、対立と融合の中から発達して国民「歌謡」となったのが、近世の浄瑠璃であり、なかでも日本人の心を深く捉えたのが義太夫節だったのです。
義太夫節は、その名の通り、元禄の大阪がうんだミュージシャン竹本義太夫(初代、1651~1714)が創始したもので、人形芝居(文楽などの人形浄瑠璃)と提携した劇音楽として非常な発達を遂げますが、素浄瑠璃といって音楽だけを演奏することもありますし、歌舞伎ではとりわけ重要な伴奏音楽となっていて、人形浄瑠璃から移入した作品(丸本物とよばれます)はもとより、歌舞伎オリジナルの作品でも(大阪製の歌舞伎のみならず江戸歌舞伎であっても)義太夫節をひんぱんに用います。
この義太夫節により歌舞伎や人形浄瑠璃(文楽)の様式も確立していき、近松門左衛門の数々の名作や、『仮名手本忠臣蔵』をはじめとする江戸時代の国民劇が続々と大阪の芝居町から生まれることとなりました(それは西欧でオペラが確立していく時期に当たりました。ヨーロッパの声楽家たちが、日本人の声楽として受けとめているのは、中世の謡曲でも江戸の長唄でもなく、大阪の義太夫節のようです。義太夫節の演奏は、今の日本人にはオーバーに過ぎると感じられるかもしれませんが、いちばんの聞かせどころである「さわり」の部分は、オペラの「アリア」に当たるわけです。ドイツ・オーストリアを舞台に活躍する、オペラ作曲家の久保摩耶子さんは、大阪音大を卒業して渡欧し、ヨーロッパでの生活が30年以上になりますが、義太夫節が大好きとのことで、日本に滞在中は、国立文楽劇場での観劇はもちろん、みずから浄瑠璃教室に通うほど「はまっている」そうです)
大阪製の浄瑠璃言葉は十八世紀を通じて全国津々浦々に浸透していき、これはすなわち大阪商人が全国の人々を相手に取引する言葉を手にしたことを意味します。大黒屋光大夫や高田屋嘉兵衛といった、鎖国下で海外に渡った商人や船乗りたちも、船の中に浄瑠璃本を携えていたことが判明しています。
義太夫節は、旋律をつけずに語る「詞(ことば)」と、旋律をつけて語る「地(じ)」に大別できます。詞は「せりふ」に相当する部分が主体となっていて、地は全体の状況や叙景、人物の行動や心理や思考などをふくみます。そして、義太夫節固有の旋律もあれば、他の音楽から摂取した旋律もあって、これはフランスのシャンソンと似ています。シャンソンも、「歌」と「語り」によってドラマが織りなされていき、ジャズやタンゴなどの音楽も柔軟に摂り入れているからです。
フランス革命から二百年に当たる、1989年(平成元年)、近松門左衛門の『心中天の網島』をシャンソンに仕立てるという試みが尼崎・つかしんホールであり、のちに大阪市役所シティホールで再演されました。この企画を立てたプロデューサーは私で、この曲はパリでも上演されたことがあります。さきに述べたように、シャンソンと浄瑠璃の共通点(それは日本とフランスのポピュラー芸術の共通点にもつながります)に着目した企画であることは言うまでもありません。
■シャンソン歌手から評論家稼業へ
オーディションを通過するには得意な曲を二、三曲こなせば済みますが、実際にお客さんの前で芸を披露するとなると、私の歌は三曲目くらいから飽きられてしまうと判明しました。これにはショックを受けましたが、考えてみれば、自分の好きな曲や歌いたい曲というのは、二枚目気取りの歌が多いものです。それでも、これが女性歌手なら、ちょっと綺麗で声が良ければ、何曲カッコつけて歌ったところで許されるかもしれませんが、一人前の男がカッコつけてばかりいると、なんだか陳腐に見えてくるものです。
要するに、ひとかどの男性歌手というのは、三枚目の唄が歌えなければ駄目だということがだんだんわかってきたのですが、これが難しいのです。
それで思案したあげく、一曲歌う前に、その曲が成立した背景や、フランス語の原詞にあるドラマ性を解説してみることにしました(シャンソンは一幕物のドラマと言われてきました)。日本語の訳詞では対応しきれない、シャンソンの深さや広がり、劇的な構成を知ってもらうことで、私の単調な歌も少しは味わいが増すのでは―そう都合よく考えたわけですが、これが予想以上に好評でした。お客さんが私の話に耳を傾けているのが、実感として伝わってくるのです。そうこうするうちに、先輩歌手たちからも前座のような形で解説してくれないかと頼まれるようになり、どうやら自分には「歌」より「話」のほうが向いていると気づいたという次第で、これが評論家稼業の始まりとなりました。
■「離見の見」は「己を掘る」作業
そんな溝を埋めていき、自分にしか出来ない役どころを演じられるようになる―つまり、自分が望むもの(自我)と、自分に望まれているもの(他我)との重なるところに己の芸境が拓けていくのですが。それを可能にするには、己を突きはなして客観的に見る「離見の見(りけんのけん)」が必要だと世阿弥は言っています。「我見の見(がけんのけん)」では駄目なのです。心の奥に潜んでいる無意識の鉱脈を浮かび上がらせ、自分でも気づかなかった個性が表れるまで、気長に修業するほかありません。それは「己を掘る」作業だといえるでしょうか。
2009. 9. 15 (火)
【最終回】 (2010年3月18日公開)