2012. 2. 6
亀川 秀樹
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【連載第6回】(2009年7月17日公開)
上方落語の定席(常打小屋)として、ほぼ半世紀ぶりに復活した「天満繁昌亭」の成功因は、一つには漫才を参入させなかったことにあると巷間噂されています。
そうだとしたら、大阪でも総合店より専門店が求められていたということになり、「五目飯のように何でもありの<ごった煮>こそ大阪的」といった従来の言い草はウソだったことになります。かつては<食の百貨店>として家族客を集めた道頓堀の「くいだおれ」や東京上野の「聚楽台」が閉店やむなきに到ったのも、そうした時代の流れから理解できます。
こうしたやり方は、一見は五目飯ふうに見えるかもしれませんが、伝統芸能に絞りこんだのが成功因で、京都のギオンコーナーと似た手法です。(ギオンコーナーには連日のように文楽の若手芸人たちが大阪から出かけてはアルバイト出演するので、文楽を京都の遺産だと思う外国人観光客も少なくないとか)
■きちんと、親切に、大阪のブランドを開陳していけばよい。
鏡板(本舞台正面の松の絵)は、老松を下から見上げるという珍しい形。橋掛かりの欄干は、ゆるやかな弓状を描き、能舞台にやわらかさを添えています。見所(客席)は(今や全国的にも珍しく)1、2階とも桟敷。2階席には茶室もあり、そこから見る能舞台を、いっそう重量感あるものにしています。舞台下に大きな瓶が九個並べられているのは音響効果をよくするためですが、新しい舞台に瓶が埋められることも少なくなった今、希少なものとなりました(見学可能)。
この舞台で<上方伝統芸能ナイト>を鑑賞して「テレビでは知りえない、ホンモノの大阪文化を知って感動した」という声を、少なからぬ観光客から耳にしました。要するに、きちんと、親切に、大阪のブランドを開陳していけばよいということに尽きるのではないでしょうか。ということは、「大阪は京都と同じやり方では通用しない」と信じこまされていた向きは欺されていたことにもなります。
■「何でもあり」は「何もない」「なにわなんでも検定」
せっかくの「大阪検定」の試みが今ひとつ盛り上がりを欠いたのも、同様の理由のせいではないかと思うのです。「なにわなんでも大阪検定」といった<ごった煮>的キャッチフレーズじたいが、ちょっと時代遅れです。「何でもあり」は「何にもない」という印象すら与えかねません。作成に携った関係者は「京都検定と同じことをしてもダメだと思った」ようですが、さあ、そうでしょうか。東京のテレビ局では、みのもんた氏が、笑えるオチまでついているような、大阪検定のことを「お笑い検定」でもあるかのように揶揄していました。
■足元は宝の山なのに、なぜコナモンやビリケンを喧伝したがる?
上方舞の四流派のうち三つ(山村・吉村・楳茂都)は大阪が本拠地ですし、華道(生け花)にしても未生流や小原流といった大流派は大阪で生まれ育ち、今も健在です。「昭和の源氏物語」と呼ばれて海外でも名高い谷崎潤一郎の名作『細雪』は、そんな大阪のブランド尽くしの小説として知られているのです。
芸能・文学・学術・景観…こうした諸々の要因が歴史ある「場」に絡み合い積み重なって都市のブランドは成立しますが、かつての大阪ブランドの標準テキストが、谷崎潤一郎の『細雪』や『春琴抄』です。ここには、料亭なら播半・吉兆、生け花は未生流、筝は生田流、地唄舞は山村、芝居(歌舞伎)は鴈治郎、落語は春団治、そして文楽…大阪のブランドが列挙されています。足元は宝の山なのに、なぜコナモンやビリケンを先に喧伝したがるのでしょう。何世紀もの間に培った文化的アイデンティティを基にして己の文化をアピールしようとしないから、もともと大阪産のブランドが京都に暖簾分けされて、そちらがもてはやされるといった、笑えない冗談のようなケースも少なからず出てくる始末です。
己をチープに売るようになると、歯止めなく都市格が低下するという、都市像のデフレ・スパイラルが起こります。東京のキー局が大阪のメジャーな遺産には目を向けず、マイナーなサブカルチャーを好んで報道しようとするせいで、いつしか在阪民放局もそれにならうようになってしまいました。
これほど自分の来歴と文化をきちんと語らなくなった大都会というのは、世界中を探しても見当たりません。大阪市東淀川区の大学へ講演に行った折のことです。その大学の住所が「大隅(おおすみ)」とあったので、『日本書紀』に出てくる、応神天皇の都が置かれた難波大隅宮にゆかりあるのでは、という話をしてみました。学長も、職員も、私を斡旋した広告代理店の社員も、まったく反応を示しませんでした。よほど足元の歴史に興味がないのでしょう。(それでも女子学生たちは興味を示してくれたように見受けたのです)
■ 時代を超えて継承されてきた文化に、アイデンティティを置く。
大阪という街は、どんな歴史を背負っているのでしょう。 難波(なにわ)と呼ばれた古代には、港町として栄え、何度か首都にも選ばれました。中世には宗教都市(四天王寺・大坂本願寺…)の相貌もそなえるようになります。豊臣時代には政治首都。徳川時代には商都となり学芸も栄え、近代には工業都市となるという具合に、大阪は時代ごとに相貌を大きく変えながら長い歴史を生き抜いてきました。
それなのに、天下の台所(物流拠点としての商都)や、東洋のマンチェスター(工業地帯、煙の都)といった、或る特定の時代に繁栄した産業基盤によりかかったキャッチフレーズをアイデンティティに据えたがる傾向があるため、産業構造が劇的に転換する今のような時代にうまく対応できなくなってしまうのです。それどころか近年は、東京キー局主導のマスコミにより、ほんの2、30年くらいの間に浸透した固定観念に頼って己を語り過ぎではないでしょうか。
かたや京都は古くからの商業都市であり内陸型の工業都市でもありますが、商都や工都をけっして看板に掲げず「古都」「文化都市」をたえず押し出し続けることで、企業や商店のブランドイメージを押し上げてきました。特定の産業構造によりかからず、時代を超えて継承されてきた文化のほうにアイデンティティを置くなら、風土としての特性や潜在的な地域の記憶をたえず意識することになり、そこで生き抜く自覚を住民に促すことにもなり、ひいては経済の活力にもつながっていくと考えられます。大阪も足元のヘリテージ(遺産)を再検証すれば、まだまだ宝の山が埋もれていると気づくはずです。
■現在の歌舞伎は、18世紀の大坂が生み育てた。
代表世話人である私も、松竹座の七月大歌舞伎に出演する歌舞伎俳優たちと同乗して道頓堀を巡行し、水都の風情を満喫しました。これも江戸時代から何百年と続く大阪のブランド歳時記といってよいでしょう。松竹映画『残菊物語』(1963)のラストに登場する船乗り込みのシーンを見て大阪という町が印象づけられた、そう語る外国人を私は何人も知っています。

MEET OSAKA より
ところで、その歌舞伎といえば、学校でも、カルチャーセンターでも、草創期からせいぜい元禄歌舞伎くらいまでの十七世紀の事例が講義の主体となって教えられていますが、これはオカシイと思います。初心者に講義する際、「出雲の阿国」や「傾(かぶ)き者」の説明講釈から始めるのが通例となっているせいでしょうが、十七世紀当時の舞台は現行の歌舞伎とは似ても似つかぬものだったはずです。
まず第一に、出雲の阿国は女優であって、歌舞伎を色濃く特色づけている女形ではありません。当時の芝居は今には伝わっていませんし、もちろん上演もされていません。にもかかわらず、受講生のレポートを読むと、インターネットから孫引きしたらしき「出雲の阿国」「傾く」「若衆歌舞伎」といった文字が、おそらくは何の実感も伴わぬまま並べられているのです。
いま私たちが歌舞伎と呼んでいる日本の国劇は、16世紀に大阪湾岸へ渡来した三味線音楽が浸透していき、18世紀の大阪で完成した音楽劇ということができます。なかでも大阪で発達した義太夫節が伴奏音楽として定着してからの作品群が、古典歌舞伎の最重要演目となりました。回り舞台やセリなど独特な歌舞伎劇場の構造も、かなりの部分が18世紀中葉から道頓堀の興行街で形成されていきます。
市井を舞台にした世話物(せわもの)に到っては、幕末から明治初期にかけての風俗が背景とすらいってよく、だから上方落語と時代風俗も重なり、現代人にも親しみやすいわけです。(大阪の落語は歌舞伎を素材にした芝居噺”しばいばなし”が多く、元の歌舞伎を知らないと芝居噺を味わう娯しみは半減します)
もちろん時代物でも、『仮名手本忠臣蔵』『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』などの国民劇が、続々と芝居町の道頓堀からうまれていきました。あの「忠臣蔵」事件は、江戸と赤穂で起こった事件ながら、それを日本人の国民的ドラマ(「仮名手本忠臣蔵」)に仕立てたのは芝居町・道頓堀でした。廻り舞台、セリ(大ゼリ小ゼリ)、すっぽん(花道のセリ)、がんどう返し、屋台崩し、引枠…わが国が誇る様々な舞台機構も道頓堀の芝居町で開発されました(四国こんぴらの金丸座は、天保年間の道頓堀の芝居小屋を模して建てられたものです)。ですから、現在の歌舞伎は18世紀の大坂が生み育てたと明言してもよいのです。
■ 「芝翫香」は、初代中村芝翫好みの香料など小間物を販売した老舗
実際いたるところに「歌舞伎の古都」らしさは見られます。たとえば、上方歌舞伎の歴代の俳優たちの墓所が密集する、中央区・中寺町の界隈です。
常國寺には、「大阪の顔」と謳われ、明治・大正・昭和にまたがり芝居町・道頓堀に君臨した初代中村鴈治郎(1860~1935)や、幕末の名優、四世中村歌右衛門(1798~1852)らが眠ります。
正法寺には、回り舞台を発明した歌舞伎作者・初代並木正三と組んで活躍した初代中村歌右衛門(1714~1791)や、映画や芝居の『男の花道』の主人公となった三代目歌右衛門(1778~1839)や、三代目中村芝翫(1810~1847)、難波(なんば)に住んだので〈難波の太夫〉と呼ばれた二代目中村富十郎(1786~1855)が眠っています。
妙徳寺には中村梅玉家の墓があります。重厚な芸風で、日蓮上人を当たり役とした、二代目梅玉(1842~1921)のブロンズ像が境内に建ちます。やこう薬王寺には、片岡仁左衛門家や、女形の舞踊劇として名高い「娘道成寺」を初演した初代富十郎(1721~1786)、圓妙寺には実川延若家の墓があります。二代目延若(1877~1951)は切手にも登場した名優で、風情のある旧宅が上本町に今も残っています。
浮世絵や切手に登場する名優たちの墓所がずらりと並ぶのは壮観です。こうして見てくると、今は東京の名跡になっている俳優の名も、大阪にルーツのある例が少なくないことに気づくのです。市川団十郎・尾上菊五郎・岩井半四郎といった江戸歌舞伎の名跡の中にも、上町台地に眠る俳優がいます。
心斎橋一丁目の「芝翫(しかん) 香(こう)」は、1813(文化10)年、現・大丸百貨店の向かいに、初代中村芝翫(三代目歌右衛門の前名)好みの香料「梅ヶ香」や櫛、簪、袋物、喫煙具等、小間物を販売したことに始まる老舗です。やはり人気役者の名にちなんで名づけられた「扇雀飴」本舗も中寺町から遠からぬところにあります。
■ 「河内厚郎対談シリーズ この人に聴く」
ミステリー作家・有栖川有栖さん
9月6日(日)13時~15時 NHK文化センター西宮ガーデンズ教室「河内厚郎対談シリーズ この人に聴く」では、大阪在住のミステリー作家・有栖川有栖さんを招き、『モルグ街の殺人』の作者エドガー・アラン・ポーの生誕二百年や、社会派ミステリーの巨匠・松本清張の生誕百年、また江戸川乱歩の大阪時代などを語り合います。
2009. 7. 17 (金)
【最終回】 (2010年3月18日公開)