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連載第2回 (2009/3/16公開)

今、振り返る「大阪音楽」往来

大阪が生んだ
天才音楽家
貴志康一

ベルリンフィルを指揮する貴志康一と
作詞作曲した自筆の楽譜「かごかき」(甲南学園蔵)


 学校や役所等で放課後や終業のチャイムに使われる音楽といえば、以前なら、ベートーベンの「エリーゼのために」やドボルザークの「家路」(『新世界』より)が定番でしたが、都島区役所では、日に2回、地元出身の作曲家、貴志康一の「竹取物語」のメロディーを流しています。これは、今から12、3年前、私が当時の都島区長さんに提案して実現したものです。ひところは都島区内の学校でも一斉に使われていました。
今年は、大阪の生んだ指揮者であり作曲家でもある、貴志康一(きし こういち 1909~1937)の生誕百年に当たります。

明治四十二年、母方の実家である、吹田市・内本町の旧・西尾邸(保存運動が盛り上がる由緒ある建物です)に生まれ、風光明美な大川沿いの桜ノ宮(現・都島区)の貴志邸(元・大阪市桜ノ宮職員会館)で育った貴志康一は、偕行社小学校(現・追手門学院)→甲南小・中学校→ジュネーブ音楽院へと進み、ベルリンで二十世紀最高の指揮者フルトベングラーの薫陶を受けた後、昭和10年に帰国。日本人として初めて暗譜で第九シンフォニーを指揮して華々しく日本音楽界へのデビューをはたしますが、昭和12年に盲腸炎をこじらせ、阪大病院で急逝。
28年という短い生涯の最後の数年間に、交響曲、管弦楽曲、バイオリン協奏曲、バイオリン独奏曲、オペレッタ、歌曲などを残してくれました。

康一の作品は、研究家の言を引くなら、日本古来の旋法やリズムをどのように西欧的な手法と融合させるかという課題に挑んだものだということになります。日本情緒あふれる叙情的なメロディーと、マイナーからメイジャーへと転調する際の、豊かな「憧れ」の感情が、その特長です。『日本組曲』『日本スケッチ』、交響曲『仏陀』などはベルリンで初演され、レコーディングもおこなわれました。(『日本組曲』を戦後はじめて再演したのは、大阪いずみホールです)。

康一は作詞も手がけ、『浪花民謡』や『七つの日本歌曲』を出版。日本古謡を編曲した「さくらさくら」が、それらの中に収められました。日本人なら誰もが知る「さくらさくら」の歌曲としてのイメージが、もしかしたら、康一が幼年時代に花見を体験した故郷・桜ノ宮の風景にあったのかも―と想像をはせるのも楽しいではありませんか。

<なにわはよいとこ、名所がおおい>で始まる歌曲「かごかき」には、天満・天王寺・住吉・曽根崎新地(北新地)など、大阪の名所が次々と登場します。その歌詞にちなんで北新地本通りに設置された文化銘板には、康一がベルリンフィルを指揮した際の写真が使われています。

1月18日には新神戸オリエンタル劇場で母校の甲南学園が生誕100年記念シンポジウムとコンサートを催しました。3月31日には、ザ・シンフォニー・ホールで、大阪フィルが交響曲「仏陀」などを演奏します。
また、康一の生涯を扱ったオペラ『ベルリンの月』は1996年にメイシアター(吹田市)で初演されて好評を博しましたが、4月18・19日にメイシアターで再演されることとなりました。プロによる専属の管弦楽団と合唱団をそなえた(日本初)オペラハウスをもつ大阪音大の、ザ・カレッジ・オペラハウス専属合唱団が演奏します。


大阪フィルハーモニー交響楽団

 

再評価の機運が高まる作曲家・大澤壽人

同じく関西で生まれ育った作曲家、大澤壽人(おおざわ ひさと 1907~1953)を再評価する気運も、ようやく高まってきました。

少年時代から阪神間在住のロシア人やスペイン人からピアノを習い、関西学院を卒業後、ボストン大学とニューイングランド音楽院で学び、日本人として初めてボストン交響楽団を指揮した大澤は、自作の交響曲や協奏曲もみずから指揮し、全ヨーロッパにラジオ放送され、注目を集めました。パリへも渡ってエコール・ノルマルに籍を置き、欧米で高い評価を得ました。
帰国後は、貴志康一と同じく、東京で新交響楽団(NHK交響楽団)、関西では宝塚交響楽団でデビューをはたします。戦後は神戸女学院大学の教授を務めながら、映画音楽や宝塚歌劇団のミュージカルなど、多くの作品を残しました。
ただ、その作風は時代を先取りしすぎ、技術的にも演奏が難しかったため、46歳で他界後、再演されることはほとんどありませんでした。それが、2000年に西宮市内の遺族宅で楽譜が見つかったことが契機となり、2003年2月、東京のオーケストラ・ニッポニカが設立第1回演奏会で取り上げた「ピアノ協奏曲第三番」(1936)では、時代に先んじた大澤の才能に多くの人々が目を見張ったのです。2004年に香港の国際的レコード会社ナクソス・レーベルが発売した作品集CD「大澤壽人」も記録的なヒットとなりました。

2006年3月にオーケストラ・ニッポニカが大阪いずみホールで演奏した「交響曲第二番」(1934)では、当時の日本には耳を傾けるべき交響曲はなかったとされてきた従来の定説を覆す期待が高まり、同年3月、西宮市の兵庫県立芸術文化センターでおこなわれた「生誕一〇〇年記念―時代を駆け抜けた天才たち―大澤壽人とその時代」はチケットが完売、ロビーでは回顧展が催されました。
さいわい大澤壽人の遺稿は保存状態がよく、戦前戦後の日本の作曲史を塗り替える可能性のある作品が多数、演奏される日を待っています。子息の壽文氏も健在なので、その洗練された人物像も明らかになっていくことでしょう。

関西から生まれた才能を紹介していくのをミッションと自覚する関西フィルハーモニーは、2005年2月13日、迫昭嘉のピアノ、飯守泰次郎指揮により、67年ぶりにいずみホールで『神風協奏曲』を上演するなど、大澤作品を積極的にとりあげるようになっています。


 

 

海外の様々な音楽が難波津へ

ここで、大阪の音楽史をふり返ってみましょう。
古代日本の国際文化交流の窓口だった難波津(なにわづ)には、海外の様々な音楽がもたらされました。今も舞楽が上演される四天王寺の「石舞台」は、都市の劇場にしてコンサートホールの原型といってもよいでしょうか。(雅楽界のプリンス東儀秀樹氏の先祖は四天王寺の「楽人」でした。楽都・大阪の原点ともいうべき四天王寺の境内では、五重塔のライトアップに合わせたコンサートが二〇〇一年から開かれるようになっています)
中世末期には三味線楽器が堺に渡来しました。
それまで、語り物系統の「謡」は存在しても器楽的な発想から出発した「歌」はなかった日本ですが、撥絃(はじいて鳴らす)楽器という日本歌唱の特性に合致するリズム楽器としての要素を持ち、メロディーを伝える音階楽器の性格もあわせ持った三味線により、諸国間に民謡の交流が始まります。三味線を伴奏とする最古の日本歌曲として堺に伝わる「組歌」は、当時の民謡や流行歌を組み合わせて作られています。また、今も大阪の邦楽で重要な位置を占める「地唄」は、洋楽でいえば、ギタアで伴奏するフォークソングのようなものでした。
こうして興った「歌」と、古来の「謡」との対立と融合の中から発達して「国民歌謡」となったのが近世の浄瑠璃―とりわけ日本人の心をとらえたのが、大阪の義太夫節だったのです。この義太夫節により、歌舞伎や人形浄瑠璃(文楽)―近松門左衛門の数々の名作や「仮名手本忠臣蔵」をはじめとする江戸時代の国民劇が生まれてきます。それはちょうど西欧でオペラが確立していく時期に当たるわけです。
こうして歴史を見てくると、大阪という都会が、千数百年前から海外の音楽を摂取し、これを日本の風土に同化させてきた地だということがわかります。

 

体系的な大阪からの音楽発信「いずみホール

いずみホールは、西洋クラシック音楽のみならず、四天王寺舞楽、文楽と洋楽のコラボレーション、大阪を舞台にした名作(たとえば谷崎潤一郎・原作『春琴抄』)のオペラ上演など、大阪からの音楽の発信に、体系的にとりくんできました。古典の名作と新作邦楽とを組み合わせて構成する<三味線音楽シリーズ>では、上方落語の大作を再現する試みなどが話題を呼ぶ一方、現代音楽においても、レジデンス・オーケストラ「いずみシンフォニエッタ大阪」が、同ホールの真近で育った作曲家・西村朗を音楽監督に迎え、相当な成果をあげています。


いずみホール

        

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