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河内厚郎の見巧者列伝

【連載第13回】歴史像は塗り換えられる。

(2010年2月17日公開)

「歌舞伎」について初心者に講義する際、「出雲の阿国(おくに)」や「傾(かぶ)き者」の説明から始めるのが通例となっているようです。けれども、その当時(十七世紀初頭)の舞台というのは、いま私たちが目にする歌舞伎とは似ても似つかぬものだったでしょう。
(当時の芝居は伝わっていませんし、もちろん上演もされていません

現代人が歌舞伎にふれて強く印象づけられるものに「女形」の存在がありますが、阿国は女優(つまり女性)であって女形(男性)ではありませんでした。歌舞伎俳優の片岡我當さんは、「念仏踊り」を踊ったことで出雲の阿国を歌舞伎の祖と呼ぶのなら、一遍上人の踊り念仏(十二世紀)こそが歌舞伎のルーツになると持論を述べています。

■歌舞伎は十八世紀以降に完成した音楽劇

今われわれが歌舞伎と呼んでいるものは、十六世紀に大坂湾岸に渡来した「三味線音楽」の普及によって、十八世紀以降に完成した音楽劇です。なかでも大坂の地で発達した「義太夫節」が伴奏音楽として定着してからの作品が、歌舞伎の最重要演目となってきました。その証拠に、歌舞伎の三大傑作とされる『仮名手本忠臣蔵』『義経千本桜』『菅原伝授手習鑑』などの時代物(じだいもの)は、すべて十八世紀中頃の大坂で作られています。町人が主役となる世話物(せわもの)に到っては、主に幕末頃(すなわち十九世紀)の大坂や江戸の市民風俗が背景となっており、だから落語の世界とも時代風俗が重なって現代人に親しみやすいわけです。「回り舞台」や「セリ」など独特な歌舞伎劇場の構造も、十八世紀の道頓堀の劇場で続々と発明されました。(なにしろ1724年以前は屋内の劇場ではなく、吹きっさらしの野天の小屋で上演していたのです)

それなのに、学校でもカルチャーセンターでも、歌舞伎草創期(といわれる1600年頃)から、せいぜい元禄時代(1700年前後)頃までの演劇史が講義の主体となって、歌舞伎というものが説明されているのは困りものです。受講生のレポートを読むと、インターネットから孫引きしたらしき「出雲の阿国」「傾く」「若衆歌舞伎」といった文字が、おそらく何の実感もないままに並んでいます。現行の歌舞伎はそれらの後に成立した演劇形式だということを知らないのでしょう。

「歴史」というのは、しょせん「言葉」で書かれるものです。戦国時代(十六世紀)に「かぶき者」という言葉があり、それが阿国の時代になっても使われていたという理由で歌舞伎の祖とされているだけのことかもしれないのです。

■「安土桃山時代」は「大坂時代」

織田信長と豊臣秀吉の時代をさす「安土桃山時代」という言葉があります。

「鎌倉時代」「室町時代」「江戸時代」といった、日本史における時代区分の呼称は、明治の終わり頃(つまり二十世紀に入ってから)に東京帝国大学の史学科が定めていったものです。鎌倉や江戸といった、各時代の行政首都(キャピタル)が置かれた土地の名を冠せて呼ぶようにしたわけです。それなら、大坂城に政治首都が置かれた秀吉の時代は「大坂時代」と呼ぶのが正しいはず。なのに、どうして「桃山時代」なのでしょう?

 「桃山」とは伏見のことを指しているのでしょうけど、伏見城は秀吉の隠居所というか別邸であって、豊臣政権の本拠地ではありませんでした。しかも秀吉の在世時に桃山という地名などはなく「松原山」などと呼ばれていたことが判明しているのです。(桃の木を植えたのは徳川家康の時代になってからということです)
また一方、「安土」というのは、信長が安土城を築いた時代をさしているわけでしょうが、信長は天下統一を果たす前になくなりましたから、本当は「安土時代」と言い切るのも無理があるのです。

調べてみると、なんと、明治末期、安土時代と命名してもらうよう、滋賀県の郷土史会が東京へ陳情に出かけていたのです!
 (最近も歴史学者たちの反対を押し切って滋賀県は「大津京」というJRの駅名を強引に付けました)

■「淀君」は「淀殿」、「石山本願寺」は「大坂本願寺」

秀吉の側室となって秀頼を産んだ女性は「淀君」と呼ばれます。この呼び名は徳川時代になって意図的に付けられたものらしく、生前は「淀殿」と呼ばれていました。それをあたかも遊女のような呼び方にして貶めようとの悪意から言い換えられたようです。

大坂城の前身、蓮如上人の御坊(1496創建、この折に「おおさか」という地名が登場)に始まる寺内町は「石山本願寺」とよく書かれていますが、そんな呼び方もありませんでした正しくは「大坂本願寺」。何も歴史を知らない人は、「石山」と聞いて、もしかして滋賀県の石山寺のことかと勘違いしてしまいそうです。

四~五世紀、大阪平野に巨大古墳がたくさん築造されます。それらに葬られた(とみられている)応神天皇や仁徳天皇は、難波(なにわ/大阪)に都を置いたと史書に書かれているにもかかわらず、「大和時代」という名で片付けられています。

七世紀の中頃にも十年近く孝徳天皇の都が大阪に置かれて、この難波宮がのちに天武天皇の副都ともなるのですが、この時代は「飛鳥時代」の名で統一されています。

うっかり放っておくと、「歴史像」はどんどん塗り換えられてしまうということです。そんなふうにして歴史の記述からいつしか忘れられていった事蹟は限りなくあることでしょ う。

■大坂の懐徳堂から発した知のアカデミズム

 江戸時代、現代のカレッジに当たる藩校は全国にありましたが、大学(ユニバーシティ)に当たるものは、江戸の昌平黌と大坂の懐徳堂―この二つでした。懐徳堂は、フィロソフィーやサイエンスなど広い領域に及ぶ、第一級の学者を数多く輩出した<知の総合大学>でした。そんなアカデミズムの系譜は大阪大学に継承された形ですが、京都大学の前身となった旧制三高の前身も大阪・大手前にあったというのを御存知でしょうか。
 明治二年(1869)五月、大阪府によりオランダ人科学者クーンラート・ウォルテル・ハラタマを教頭とする舎密局(せいみきょく)が開設されました。舎密(chemistry の オランダ語)とは化学の意で、明治時代わが国で最初に開かれた理科学校でした。ここで近代化に必須となる自然科学の教育が行われたのです。日本の初期の科学研究の多くはこの舎密局に端を発しています。舎密局はその後、理学校と改称され、この流れが第三高等学校となり京都大学となった次第です。

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舎密局
舎密局クーンラート・ウォルテル・ハラタマ像
舎密局クーンラート・ウォルテル・ハラタマ像プレート部分

「古都おおさか」をもっと掘り起こしてみようではありませんか。

遣唐使のコスチュームをまとった河内厚郎
遣唐使のコスチュームをまとった河内厚郎




お知らせ


「人形浄瑠璃街道フェスティバル」


■日時 3月21日(日)13時開演(12時半開場)
■会場 脇町劇場オデオン座
    徳島県美馬市猪尻西分140-1
 基調講演 : 河内厚郎
 公  演 : 「三番叟まわし」「戎かき・えびす舞」の競演
「傾城阿波の鳴門 巡礼歌の段」




「河内厚郎対談シリーズ この人に聴く」 噺家・林家染丸さん


■日時 4月18日(日)13時~15時
■会場  NHK文化センター西宮ガーデンズ教室

「河内厚郎対談シリーズ この人に聴く」は、上方落語界の重鎮・林家染丸さんを招きます。天満繁昌亭の成功や、NHKの朝のドラマ「ちりとてちん」などで活気づいた上方落語、その大阪の「噺」の歴史、魅力、聞きどころなどを、縦横に語り合います。

【連載第12回】職人の恋

(2010年1月17日公開)

日本人はホントに血液型の話が好きです。

私も血液型について話し始めると、いっこうに飽きません。ただ、日本人の血液型論議に一種のパターンのようなものが見られるのが、私には不満なのです。

日本のテレビ番組にクイズ番組がたいへん多いのは今さら指摘するまでもありませんが、あたかも切り取ってきた断面のように「静止」した解答を求めたがる傾向が日本人にあるというのが問題です。たとえば川の流れを眺めて楽しむにしても、流れのうつろう風情だとか、月の光を反射する水面の綾といったものに日本人は敏感に反応しますが、その流れのルーツが何処にあるのか、また何処へ流れていこうとしているのかといった、根本的・本質的なことに日本人は鈍感というのか、わりあい無頓着です。ですから、血液型をめぐる性格論議についても、まるで鋳型にはめて切り取ってきた解答を求めるかのように、性格と血液型が当てはまるという具合に考えがちなのではないでしょうか。

しかし、人間の性格というものは、形容詞のように静止した形で切り取って表せるような代物ではないと私は考えるのです。人それぞれの人間性を具体的に捉えるには、この人の心には一体どういった気持ちの働き方が起こりがちか、この人は物事についてどういう決定の方向を示したがるのか、そもそもどんな動機(モチーフ)を秘めているタイプなのか―そういった「動的」な要素こそがポイントではないかと、私は言いたいのです。

■水源を探ること

<源氏物語の語りべ>として人気を博した村上リウ(故人)という女性がいました。彼女は生前、日本人よりむしろ外国人のほうが源氏物語の作者の気持をズバリと掴んでいるようだと、よく語っていたものです。それは、日本人が物語の雰囲気やこまごまとした情景や風情に関心がありすぎて、現象というものに捉われてしまう風があるということなのです。目の前のトリビアルな現象ばかり追いかけ、その現象がどこから来るのかといった、事の本質を探求する力に乏しいということになるわけです。昨今の迷走する国内政治についても、政局の表面的な現象だけを捉えがち。ジャーナリストにしても、現象の報告はするものの、その現象がどこから来たのかといった原因を突きつめて探ろうとしない。新しいニュースが出てくると、古いニュースをすぐ忘れる―それと似たことが「源氏物語」ブームにも言えるというわけです。川の流れが美しいとか、滝のようすがどうとかではなく、その水源を探ること、この大河小説の源を探ることこそ私たち近代人の役目ではないかと、熱っぽく私に村山さんは語ってくれたものです。

■近松門左衛門はA型

その「源氏物語」の主人公である光源氏という貴公子は、典型的なO型人間の男性のように見受けます。いわゆる八方美人で、頼られると断れず、実際に面倒見もよい。けっこう負けん気はつよくて、自己主張もはっきりとありますが、案外とワキが甘く、ツメも甘い。
一方、近松門左衛門の心中劇に登場する主人公のほとんどはA型人間ではないかと私は想像して楽しんでいます。門左衛門その人もたぶんA型だったでしょう。

だいたい日本人の行動パターンというのは、A型的です。「手順」「だんどり」を重んじる律儀な完璧主義者が多く、それがうまくいかないと、キレてしまいがち。近松作品の主人公たちも、わかっちゃいるけどやってしまう、という具合に破滅していくパターンをとるからです。そして、いったん状況が破綻してしまうと、今度はパッと切り換えて黙々と復興に励む―そんな日本人の自然順応的な職人気質は、昔も今も基本的に変わっていないのではないでしょうか。

■モノと心を通わせる

村上春樹氏(A型)に『ノルウェイの森』という、いたってシンプルな筋立ての恋愛小説があります。あの小説が何故あれほどまでに日本人の心を捉え、空前のベストセラー作となったのでしょう。ひとつには、そこに「職人の恋」が描かれたからではないかと、私は想像しています。
―女は男にたえず質問を浴びせかけます。源氏の君のように巧みな返事をかえせば済むところを、うまい嘘などつけず、ただ寄り添うことしかできない男。演劇的な言辞でサービスすることが男にできなかったということが、若い男女を悲劇に到らせるのです。

女は精神を病んで自殺。傷心の旅に出た男が放浪先で何げなく手にする大工仕事らしき作業の描写は、読む者の心に不思議な感動を呼び起こします。ひたすらモノと心を通わせてきた人間(これはオタクにも通じるでしょう)が、矛盾に満ちたヒトという生き物と言葉を通わせようとすることの難しさを描いたという、この単純で痛切な真実が日本人の心を揺り動かしたのかもしれません。

かくいう私は、O型人間です。

【連載第11回】森繁久弥と宝塚

(2009年12月17日公開)

シネ・ヌーヴォ

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新年1月2日(土)~1月15日(金)、シネ・ヌーヴォで、「映画文芸散歩」と題し、『夫婦善哉』(豊田四郎監督、織田作之助原作)をはじめ、森繁久弥の主演した代表的な四作品が上映されます。


森繁久弥の死を報じるニュース報道は、どれも「大阪・枚方に生まれ、早稲田大学を中退...東宝劇団を経てNHKに入り、旧満州でアナウンサー...」といった調子で始まり、つづいて戦後の舞台や映画、ラジオやテレビでの活躍が列挙されるという具合で、森繁が育った街のことは紹介されませんでした。大正二年(1913)生まれの森繁は、大正七年から少年期を送った阪神沿線の鳴尾や今津を「我が故郷」と記しているのですが―

平成九年(1993)、西宮市鳴尾小学校(明治六年開校)の創立120年周年記念に、森繁久弥は長さ1.5メートルの巻紙の手紙を母校に送りました。そこには、「枝川の清き流れに鮎つかみし うない(幼少)の頃」で始まり、「一面に紅の輝く」イチゴ畑でイチゴを盗み食いして怒られたこと、小型飛行機がイチゴ畑に墜落した事故など、当時のみずみずしい体験が毛筆でつづられているのです。武庫川の支流だった枝川の一部が埋め立てられると、「無残やな いとほしき川は水が止りやがて天を摩する高層建築は成り人これを呼んで甲子園という」と、一変した故郷を惜しむくだりもあります。大正十三年(1924)に完成した甲子園球場が、森繁少年には摩天楼のように思えたのでしょう。懐中時計を磨きながら生真面目な指導をした恩師の「平野先生」、将棋が上手だった同級生の「瀬川」なども、この手紙には登場します。

森繁はこの鳴尾小に五年生まで通った後、大阪市内の堂島小学校に転校します(堂島小ではのちに高名な演出家となる武智鉄二と同級でした)。そして名門・北野中学へと進学しますが、それでも鳴尾への思いを「心のふる里である。北野中に入ったが、私たちはまだ、その鳴尾にいたのだ」と手紙を結んでいるのです。(当時の北野中学は、現在、梅田芸術劇場の建つ場所にありました。平成四年の開場公演―当時の劇場名は「劇場飛天」―で、森繁は「わが母校の地に建つ」と祝辞を読みあげています)。

■宝塚映画に出た頃は実に楽しかった

昭和初期、阪神沿線で時代劇のロケが盛んに行われていたことを追想して、森繁は書いています。「こうじの香りのほのかにたゞよう西宮の酒倉の暗い細い露地を、阪東妻三郎や大河内伝次郎が三尺を抜いて、寄らば切るぞと走ったのである・・・そんなロケーションは必ず西宮の由緒深い港に建つ古色蒼然たる障子の入った黒い板の燈台を撮影して行ったことを覚えている」(西宮市『広報グラフ』に寄稿した「西宮今昔」より)。

のちの名優モリシゲの原点はここにあったのかと推察されるくだりですが、これは現存する日本最古の木造燈台、今津灯台(大関酒造が管理)のことです。そんな懐かしさもあってか、戦後に俳優として成功してからも、西宮のヨットハーバーに自艇を停泊させて梅田コマ劇場や宝塚映画に出演したり、大阪湾を一望に見下ろす芦屋六麓荘に家を求めようとしたものの既得権に妨げられて叶わなかったり(松竹新喜劇の名優だった藤山寛美は、『屋根の上のヴァイオリン弾き』で貧しいユダヤ人を演じながら、実人生では豪奢な生活を娯しむ森繁を、あたかも偽善者のように批難したものでしたが...)といった昭和30年代、森繁久弥は宝塚映画にたびたび出演しています。

大阪・九条で「市民の映画館」シネ・ヌーヴォを主宰する影山理氏の協力を得て、私が実行委員長を務めてきた「宝塚映画祭」も十年目を迎えました。今年の映画祭で上演された『暖簾(のれん)』(山崎豊子のデビュー小説が原作)や、『世にも面白い男の一生 桂春団治』など、森繁の主演した「大阪物」は、宝塚映画の中でも秀作とされているものです。「宝塚映画に出た頃は実に楽しかった」と森繁がよく述懐していたというのも、故郷の傍の撮影所という格別の思いがあったに違いありません。

■東の「大船調」、
 西の「宝塚調」

宝塚製作所

私は子供の頃、町内に「宝塚映画」の俳優さんが住んでいたこともあり、おのずとそのスタジオへ遊びに行くようになりました。高島忠夫らが専属となり、関西時代の森光子なども出演していました。

宝塚における映画製作は、昭和十二年(1937)、劇中に映画を挿入するキノ・ドラマが好評を博したのに始まり、翌年には大規模な映画専用スタジオが建てられました。その翌年、歌劇団に「映画課」が設けられて劇場用映画が製作されるようになりますが、戦時体制下、政府が映画会社を統合させたことにより宝塚映画撮影所はいったん閉鎖されます。

昭和二十六年(1951)、阪急電鉄の全額出資で「宝塚映画製作所」が設立され映画製作が再開されましたが、二年後の火災で撮影所は全焼。西宮北口の仮設スタジオで撮影が続けられました。中村扇雀(現・坂田藤十郎)が宝塚映画の専属となり、歌劇の娘役スターだった扇千景と結ばれたのは、この西宮時代のことです。その間に宝塚では元の場所に新スタジオの建設が進み、1956年、かまぼこを四つ重ねたような屋根で二つのステージが入る新スタジオが完成。俯瞰撮影も可能という、当時としては破格の屋内スタジオでした。

ここでは五百人以上のスタッフを抱え、『小早川家の秋』(監督・小津安二郎、阪急「十三」駅での深夜ロケが話題に)や、『放浪記』(林芙美子・原作、高峰秀子主演)など日本映画史上に名を残す名作、『ジャズ娘乾杯』『恋すがた狐御殿』(美空ひばり主演)などの音楽映画、『サザエさん』シリーズ(江利チエミ主演)などの喜劇、嵐寛寿郎の『鞍馬天狗』シリーズなど時代劇、加山雄三の『姿三四郎』『若大将』シリーズといった青春物、『花のれん』のような文芸物......1978年の『お吟さま』まで、176本の劇場映画が製作されたのです。(それ以降はテレビ映画が主となり、大森一樹や黒沢清といった、当時は若手の監督たちが、80年代、宝塚でテレビ映画を製作しています)

1953年に松竹・東宝・大映・日活・東映の映画会社は互いに俳優や監督を引き抜きあわないという「五社協定」を結びましたが、宝塚映画はこの協定に加わらなかったため、多くの監督・俳優が自由に仕事ができ、東の「大船調」に対する西の「宝塚調」と呼ばれる独自の世界をつくりあげたのでした。若き日の藤本義一も、このスタジオで働いていました。

この宝塚映画製作所の作品は、東宝の映画館に配給されていました。というのも、阪急電鉄や宝塚歌劇団をつくった実業家・小林一三(1873~1957)が、東京に進出してつくった興行会社が「東宝」(すなわち塚)だったからであり、阪急東宝グループと総称されるゆえんでもあります。

■〈果て〉の哀傷を色濃く漂わせる森繁節

森繁の話に戻ります。
ミュージカルという劇のスタイルに日本が市民権を与えたのは、森繁がテヴィエ爺さんを主演した、東宝ミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』のヒットからだと言われています。ロシアの広大な大地を舞台にユダヤ人の農民一家が離散していくというドラマですが、それまでの輸入ミュージカルと違って、台詞が「翻訳調」に聞こえなかったことが成功因でした。

そこには森繁がアナウンサーとして鍛えた朗読術も無視できません。森繁が戦争中にNHKのアナウンサーをしていたのは旧満州の新京(現・長春)でしたが、そのとき奥地のほうまで赴いた経験が、「さいはて」の哀愁をしみじみ表現する、森繁節の下地になったと推察できるのです。『屋根の上のバイオリン弾き』の主題歌「サンライズ・サンセット」や、「月の砂漠」「知床旅情」など、<果て>の哀傷を色濃く漂わせる森繁節というのは、ロシア民謡やジプシーの旋律を昔の小学唱歌や満州唱歌などがアレンジしたものではなかったでしょうか。西欧とは異なるユーラシアの音楽性・叙情性というものがあり、日本人に郷愁を感じさせる旋律とリズムの秘密はそのあたりに潜んでいるかもしれません。

■ロシア革命や第1次大戦を逃れた音楽家たちが、関西で西洋音楽を広めた。

東京での洋楽の普及は上野の音楽学校(現・東京芸大)が担いました。こちらは西欧直輸入の音楽が主でしたが、関西で西洋音楽を広めた人々には東欧スラブ系の音楽家が多かったのです。
大正から昭和初期、ロシア革命や第一次大戦を逃れた音楽家たちが、シベリア・満州を経由して続々と来日、大阪湾岸の町に定住していきました。ピアニストのルーチン。その異父弟のヴァイオリニストで、多くの日本人音楽家を育てたモギレフスキー。大阪出身の作曲家、貴志康一(今年は生誕百年)にヴァイオリンを指導したウェクスラー。指揮者のラスカ(宝塚交響楽団指揮者)やメッテル(NHK大阪放送局の設立したJOBKフィルハーモニックの指揮者で、大阪フィルを率いた朝比奈隆や、歌謡曲の作曲家となった服部良一の師)、その夫人で宝塚歌劇団の舞踊教授だったオソフスカヤといった人々が住んだ洋館の一部は、今も阪神沿線の深江に残っています。

1月11日(月・祝)、「近松二十四番勝負(世話物) お夏清十郎 五十年忌歌念仏」を企画プロデュースしています。南条好輝・三島ゆり子の語り芝居です。第二部のトークには私も出演します。15時開演。兵庫県県立芸術文化センター小ホール

お夏清十郎

1月15日(金)、第46回「なにわ芸術祭」新進落語家コンクール(産経新聞社・上方落語協会主催)の審査員を務めます。平成八年の第一回目から審査員を務めているのは私だけとなりました。18時開演。ワッハ上方

【連載第10回】「下町」よりも、あえて「上町」を

(2009年11月17日公開)

大阪ほど、自分の来歴を語らなく(語れなく)なった大都市というのは、世界中を探しても、ちょっと他に見当たらないのではないでしょうか。
私は、過去に、十数年もの間、大阪市の新任職員研修の講師を務めたことがあります。千数百年にわたる大阪の歴史と文化を概略で説明するという講義でしたが、大阪に都が置かれたことなど知らない若者がほとんどで、ここからの意識改革がまず求められると痛感させられたものです。

■大阪のように「商都」や「工都」を看板に掲げなかった京都

古代には港町(ときには首都)として栄え、中世には宗教都市(四天王寺・本願寺...)の相貌を呈し、豊臣時代には政治軍事首都、徳川時代には商都として繁栄、文芸や芸能の中心地ともなって、そして近代には工業都市ともなるという具合に、大阪は時代ごとに大きく街の顔を変えてきました。
それなのに、「天下の台所」(商都、物流拠点)や「東洋のマンチェスター」(工業地帯、煙の都)といった、或る特定の時代に繁栄した産業基盤によりかかったキャッチフレーズを安易にアイデンティティに据えたため、産業構造がダイナミックに転換する今のような時代に大阪はうまく対応できなくなってしまっているのでしょう。
一方、京都も、古くからの商業都市であり、内陸型の工業都市でもありながら、大阪のように「商都」や「工都」を看板には掲げず、あくまでも「古都」「文化都市」を押し出すことで、企業や商店のブランドイメージを押し上げてきましたが、これは明らかに経済的メリットにもつながっています。
時代々々に栄えた産業よりも、時代を超えて継承されてきた文化のほうにアイデンティティを置くなら、風土としての特性や潜在的な地域の記憶をたえず意識することになり、そこで生き抜く自覚を住民に促すことにもなって、ひいては新たな経済の活力にもつながっていくということです。
大阪も足元のヘリテージを再検証すれば、まだまだ宝の山が埋もれていると気づくはずなのに―(大阪市東淀川区の大学へ講演に行った折のこと。その住所が「大隅」とあったので、もしや『日本書紀』に出てくる応神天皇の難波大隅宮(なにわおおすみのみや)ゆかりの地では、という話をしてみました。女子学生は興味を示してくれましたが、学長も、職員たちも、私を斡旋した広告代理店の社員も、まったく反応を示さなかったものです)
 個々の歴史や文化はそれなりに知られていても、それらの有機的つながりというか、全体の体系が捉えられていないのかもしれません。

■大阪の原風景

大阪湾岸における最古の祭として文献に登場する八十島(やそじま)祭は、天皇が即位した翌年、宮中の神殿に仕える女官が、天皇の衣を難波(なにわ)の海岸で振るという儀式でした。
八十島とは日本の国土を示す古称で、八十島祭は平安初期の850年から鎌倉時代の1224年まで行なわれていたことが文献から判明していますが(平清盛の妻である時子も安徳天皇の即位時この大役を務めています)、海に臨む難波に都が置かれていた時代から存在した可能性もあります。

海から生命力をもらうため天皇みずから岸辺に立って着物をひらひらさせたかもしれないという往時の風景を想像してみるに、あたかも船の先端で両手を広げるハリウッド映画『タイタニック』のシーンさながらではなかったかとは、天神祭に詳しい高島幸次氏(大阪天満宮文化研究所研究員)のロマンチックな想像です。八十嶋祭の行なわれた難波祝津(はふりつ)宮の伝承地としては、尼崎市扶桑町(波洲橋)のあたりだという説があります。
そのときに祀られた神様は生島神(いくしまのかみ)と足島神(たるしまのかみ)で、現在、この両神を生国魂(いくたま)神社(天王寺区)が祀っています。「生国魂」という社名からも明らかなように国土の生成に深くかかわる社殿が、上町台地から下界の島々を見おろす場所に建てられたのは偶然ではないでしょう。

ここで、古代の湾岸部の地形を思い描いてみますと―南方の和泉台地から海に突き出した岬(現在の上町台地)の周りには、淀川や大和川が運んだ土砂が大小の砂州(デルタ)を形づくり、難波八十嶋(なにわやそしま)と呼ばれていました。都島・中之島・堂島・福島・松島・江之子島・出来島・四貫島・姫島...大阪市内低地から尼崎市にかけての、島のつく地名群はその名残りです。安閑天皇のときに牛が放たれ、応神天皇が大隅宮を置いたと考えられている大隅島も、そんな八十嶋の一つでした。
そんな島々を眼下に見おろして上町台地に宮居した帝王たちには、海に浮かんだ八十嶋の風景が、あたかも海中から陸地が湧き出たような風景として目に映ったのではないでしょうか。八十嶋のはるか先には、国生み神話のふるさととなる淡路島が浮かんでいるのです。
古事記の「くらげなすただよえる」といった記述が表すように、海に漂うかのような渾沌としたクニが、言葉の呪力によって一つの意志をもった国家へと統合されていく歴史のダイナミズムに思いを馳せてみるのも興味深いではありませんか。八十嶋のひとつ、姫島の地(大阪市西淀川区)で、乙女の屍に悲嘆して詠まれたという「妹が名は、千代に流れむ姫嶋の、子松が末に苔むすまでに」(『万葉集』巻二の挽歌のひとつ)という歌がありますが、この歌をのちに日本の国歌となる『君が代』の本歌(もとうた)と見倣す有力説があることも指摘しておきましょう。

■古都おおさか

この難波の地に、七~八世紀、孝徳天皇のや難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみ・前期難波宮)や聖武天皇の難波宮(後期難波宮)が造営されました。
「長柄豊碕」とは、長い柄のように海に突き出した岬といった意味になるでしょうか。今も長柄や豊崎という地名が大阪市北区に見られます。難波長柄豊碕宮は、『日本書記』に「たとえようもなく美しい」と記されており、井上靖の歴史小説『額田女王(ぬかたのおおきみ)』にはこの宮殿の完成の様子がロマンチックに描かれています。
すでに推古朝の時代、わが国初の官寺である四天王寺が建立され(593)、大道(だいどう)という最古の国道(官道)が通ったという難波には、三種の神器に必要な「玉」を作る玉作部(たまつくりべ)などの職人集団が住み(「玉造」という地名のルーツです)、都城の建設に必要なインフラ整備が整いつつありました。
難波長柄豊碕宮(651)は、それまでの宮とは隔絶したスケールをもつ、本格的な中国風の宮殿建築を誇りました。西に海を望む宮殿は、四天王寺の五重の塔と並んで、海外からやってくる賓客に新生国家の偉容を見せつけたことと想像されます。
この七世紀中葉に建てられたわが国初の本格的な宮殿建築の遺構は、大阪城の南、法円坂にあり、国の史跡に指定されています。天皇が政務を執った太極殿の基壇が復元されて、御所のゲートにあたる朱雀門の遺構も発掘されました。大化の改新から三年後の648年を示す「戌申年」の文字が書かれた木簡や、万葉仮名で書かれた七世紀中葉の木簡、さらに周囲に回廊跡がある高床建物跡も見つかりました。難波宮の東に広がる河内湖を望む崖の上に当時は建っていたらしく、外国使節をもてなす迎賓館のような施設だった可能性もあると考えられています。

大阪歴史博物館とNHK大阪放送局の地下室では、ガラス越しに、難波宮の礎石を見ることができます。すぐ傍からは仁徳天皇の高津宮の時代らしき高床式の遺構も出土しており、NHK大阪放送局(BK)と大阪歴史博物館の南側に復元されました(高津も今なお大阪の都心に残る地名です)。

また、大阪天満宮の境内にある多くの末社が南向きなのに、社前の石畳だけが西北を向いているのは、天満宮の前身である大将軍社が長柄豊碕宮を守っていたときの方角の名残りだと考えられており、「石ばしる垂水(たるみ)の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも」(『万葉集』志貴皇子)と歌われたのは、狭い湾口をはさんで難波の対岸にあった垂水の地(現・吹田市)のことだとされています。旱魃で井戸や河川が枯れた折、ここの水を長柄豊碕宮へ高樋で送ったといわれているところです。

「都島」という地名も、難波宮付近にあったことから命名されたという説と、難波宮の向こうの地であったことから「宮向島(みやこじま)」と称したという二説があります。

■古代都市の記憶

そんな古代都市・難波京の街割が、上町台地には現代まで伝わっているのです。大阪市天王寺区の勝山・国分町あたりの一辺約265メートルという正方形の街区がそれです。難波京の十四条目に相当する東西道路を西へ向かうと四天王寺の東大門(東門跡)に至りますが、発掘調査の結果、四天王寺の東門は、難波宮と同じく七世紀中頃に造営されたことが判明しました。付近では八世紀の井戸から七世紀の瓦が出土しています。

難波宮の中軸線を朱雀門からそのまま南へ延ばす形で敷かれた朱雀大路(都大路)は、現在の近鉄奈良線のガード下あたりを抜ける道でした。推古天皇の二十一年(613年)に難波から飛鳥に至る道をつくったと『日本書紀』に記述のある、この大道が難波京の朱雀大路に転用されたらしく、四天王寺付近に残る「往大道」という小字名や「大道」という町名が、そこから大道が始まることを示す地名だとするなら、このあたりが難波京の南端だったことになります。
天武天皇の八年(679年)には「難波に羅城を築く」という記述が日本書紀に出てきます。羅城とは都の周囲を囲む城壁のことで、朱雀大路の延長線上に、都のゲートとなる羅城門(羅生門)があったと推定されています。環状線「寺田町」駅の近くに残る「南門」という子字名のあたりがその羅城門の跡でしょうか。たしか羅城(ライセイ)という小字名もかつては残っていたようです。
現在、四天王寺の南門から東南へ下り、JR「寺田町」の高架下を抜けていく大道は、上町台地からまっすぐ南下して、今の住吉区と東住吉区の境を通り、大和川を渡って松原市と堺市の境を進みます。前者は摂津国と河内国の、後者は河内国と和泉国の国境線になります。(摂津・河内といった国郡里制は701年の『大宝律令』で定められました。河内国の南西部が独立して和泉国となる757年頃から、摂津と和泉の国境の辺りを「さかい」と呼んでいたらしく、これが「堺」の語源でしょうか)。
そして大道は、反正天皇の宮があったという丹比(たじひ)あたりで東へ折れ、敏達・用明・推古・孝徳の各天皇や聖徳太子・小野妹子らの墓所が鎮まる磯長(しなが)の「王陵の谷」へと続きます。旧・大和川の自然堤防に沿って現在の国道二十五号線に近い行程で、大和川・今池遺跡では両側に側溝をもつ古代道路の跡が発見されており、溝と溝の間がほぼ18㍍と広いのが官道の証拠とされています。

■上町台地は、大阪の原点であり、日本最古の都市遺跡

上町台地こそは、大阪の原点であり、日本最古の都市遺跡です。わが国最古の橋(猪甘津(いがいづ)の橋、小橋・鶴が橋とも呼ばれました)が架けられ、最古の官道(国道)が通り、初の本格的な宮殿(難波宮)が築かれた「古都」としての蓄積のうえに、中世の寺内町(石山の本願寺)、近世の城下町(大阪城)も築かれていったのでした。
国際貿易都市・堺の名が宣教師によって西洋へ伝わった中世末期、上町台地にそびえる浄土真宗の本山で、「水上の御堂」と呼ばれた大坂本願寺の寺内町(明応五年すなわち1496年、この地を訪れた蓮如上人が建てた御坊に始まります。大坂という地名もこの時に登場します)は、清水谷のあたりを南限として、上町台地の北部分に十町はありました。これを退去させて上町台地の北端に大坂城を築いた豊臣秀吉は、はるか南へと延びる首都建設に着手します。
天正十一年(1583年)の宣教師ルイス・フロイスの報告書によると「(秀吉は)市を拡張して大坂より3レグワ(約17キロ)を隔てた堺の町まで続けようとしている...家屋は既に約2レグワの天王寺付近までできた」ということです。
当時は大和川が上町台地の北側に流れこみ、今のように大阪と堺を隔てていませんでしたから、この構想が実現していたなら、大阪からまっすぐ南へと延び、東へ折れて飛鳥へと向かう、わが国最古の国道が近世の都大路としてよみがえっていたかもしれません。
その南北の道は埋もれてしまいましたが、東西の道は現在の堺・大小路を起点に復活、河内平野を貫いて竹内街道と呼ばれました。

■「下町」よりも、あえて「上町」を押し出す

私は、昨年に創立120周年を迎えた、追手門学院の客員教授に就任しました。といっても教室で講義をするわけではなく、大阪城・難波宮跡・四天王寺などがある上町台地の歴史・文化を対象にした「上町学(古都おおさか)プロジェクト」に取り組んでほしいという要請を受けてのことです。大阪の観光資源の開発を進める関西経済同友会と連携し、上町地区に世界遺産登録をめざす市民運動にむけて調査研究面から支援していくのが目的です。
追手門学院の名称は、建学の地である大阪城の表門(追手門)に由来し、小学校と同学院大手前中・高校のキャンパス(大阪市中央区大手前)は大阪城三の丸に位置します。近年、大阪城公園を訪れる外国人観光客はふえる一方ですが、この巨城とその歴史について、私たちはどれほどのことを知っているでしょうか。
追手門学院では、2006年から3カ年計画で大阪城の自然や生態について総合調査などを含めた「大阪城プロジェクト」を実施してきましたが、さらに記念事業の一環として昨年四月、同学院大手前中・高校の新館が完成し、その六階フロアに学院の共同施設「大阪スクエア」が設けられました。
一方、関西経済同友会も、「古都おおさか」の魅力を発信していくための調査活動を展開してきた結果、大阪城のみならず、大化改新にともなって造営された難波宮、日本最古の官道である「難波大道」(難波京の朱雀大路でもありました)、最古の官寺である四天王寺、歌舞伎名優の墓所が密集する中寺町など、上町台地にある数々の由緒あるスポットが浮かび上がりました。空堀(からほり)界隈には戦前からの町家を活かしてデザインされた観光スポットも形成されているため、同友会としても「上町学」の設立を提案、追手門学院の調査・研究を支援することを決めたという次第です。
この「上町学プロジェクト」は、既に市民サイドで展開されている文化事業と連動しつつ、昨年十二月から再来年三月末までの約二年四ヵ月の予定で実施、座長は河内厚郎が務めます。具体的活動としては、

①能や浄瑠璃、歌舞伎の舞台となった場所を散策したり、上町台地に在住・ゆかりの文化人(ミステリー作家の有栖川有栖氏など)を招いて市民向けのトークショーを開催していく、大阪城スクエアを中心にした「上町再発見講座

②上町の作品化事業・・・上町台地を舞台とした新作の能・狂言などの製作、文芸・映画作品や絵画、写真などのデータの収集。歴史年表や上町ブックレットの出版、「難波大道」を観光ルート化してマップを作製

③大阪城公園を核とした歴史・観光コースの策定と海外向けマーケティング・・・などをあげています。

とかく昨今の大阪は「下町」を売りがちなのに対し、あえて歴史の表舞台としての「上町」を押し出そうという狙いもあります。
阿倍野や住吉を走る阪堺電車が、上町筋を北上して大阪城公園まで延伸されれば、大阪城―四天王寺―住吉大社を巡る路面電車になることでしょう...そんな夢も見たいものです。

【連載第9回】ロマンチックな「絵空事」からリアルな歌劇へ

(2009年10月15日公開)

九月の連休は横浜ですごしました。OSK日本歌劇団の元メンバーを主に、宝塚歌劇団に在籍したメンバーも加わるという一座で、私の企画したミュージカルを、旧ドイツ人居留地の<ゲーテ座>という劇場で上演してきたのです。

OSKとは大阪(O)松竹(S)歌劇団(K)のことです。「歌のタカラヅカに、踊りのOSK」と並び称せられた、そのエネルギッシュな舞台は、近鉄劇場での公演が始まった頃から観ていました。その昔、千日前にあった大劇(現・NGK)のステージもかすかに覚えてはいますが、直接のおつきあいが始まったのは、2003年のこと。近鉄に支援を打ちきられて解散に追いこまれるOSKを特集した『クローズアップ関西』というNHKのテレビ番組に、私がコメンテーターとして出演してからのことです。
以来、大阪の市民劇団として再生を図る新生OSKとはまた別に、解散時のファイナル公演でトップをつとめた元メンバーらによる新劇団<歌劇★ビジュー>の創立に深く関わってきました。2006年には大阪・住之江のBLACK CHAM BERS(旧・名村造船所)における公演で文化庁芸術祭優秀賞を受け、昨年は姫路菓子博で一か月公演を敢行。11月には小規模ながら中国公演も行います。

■ジョン万次郎に勝るとも劣らない数奇な生涯、ジョセフ彦

九月に横浜で上演してきた『揺(たゆ)たう潮(うしお)の咲くらばな ジョセフ・ヒコ物語』は、幕末から明治にかけて、日米両国を舞台に、数奇な人生を送った、ひとりの男の物語です。

 


天保八年(1837)、現在の兵庫県播磨町古宮に生まれ本荘の浜田で育ったジョセフ彦(幼名・彦太郎)は、嘉永三年(1850)、船乗りだった養父の航海に同行し、江戸見物を終えての帰途、遠州灘(静岡県沖)で暴風に遭います。


太平洋を漂流すること五十余日。アメリカの商船に救われて、翌年二月、彦太郎らはサンフランシスコ港に到着しました。アメリカ政府は彦太郎らを日本へ送り帰すことで国交開始のきっかけをつかもうと、マカオでペリーの東洋艦隊に乗せる手はずをとりますが、ペリーの来航が遅れたため、彦太郎は再びアメリカに渡りました。
彦太郎は、サンフランシスコ税関長サンダースに連れて行ってもらったニューヨークで電信・ガス燈・汽車を見て驚き、ワシントンでは大統領ピヤースに紹介されます。アメリカ大統領と会見した最初の日本人となった彦太郎は、サンダースの援助でボルチモアのミッションスクールに入学。聖書・英語・算数などを学び、サンダース夫人の勧めでカトリックの洗礼を受けました。神父があげた名前のうち耳に快く響いた「ジョセフ」を用い、ジョセフ彦と名乗ることになるのです。そして、いつの日か帰国がかなった際、アメリカ国籍を持っていたほうが有利とサンダースに勧められた彦は、安政五年(1858)、日本からの帰化第一号としてアメリカの市民権も得ました。

その間に、ペリーの来航によって江戸幕府は日本の開国へとふみきります。安政六年(1859)六月、二十一歳になったヒコは、神奈川のアメリカ領事館通訳となり、ハリスに伴われて念願の帰国をはたしました。そして、日米修好条約後の業務や幕府の遣米使節の派遣などに奔走しますが、日本人でありながら髷を切りクリスチャンとなったヒコは、攘夷浪人から狙われて身辺が危うくなり、文久元年(1861)、三たび渡米。リンカーン大統領と握手した唯一の日本人となりますが、南北戦争の動乱をあとに再び日本へ戻りました。
元治元年(1864)、ヒコは、わが国最初の新聞「海外新聞」を神奈川で創刊します。これは、貿易の現状や相場など各国のニュース、アメリカ史略といった読み物、在日外国人の広告などを載せたもので、慶応二年(1866)十二月まで発行され、手書きから木版印刷に移ったのちでも二十六号を数えました。 <NEWS>を<新聞>と名づけたヒコがいなければ、明治になっても「瓦版」の時代が続いていたかもしれません。ヒコが<新聞の父>と呼ばれるゆえんです。

明治元年、ヒコは時の伊藤博文 兵庫県(初代)知事に「故郷に帰りたい」と願い出て、19年ぶりに懐かしい故郷の土を踏みます。けれども、そこに家族の姿はもうありませんでした。その後、神戸や大阪に住んで、桜ノ宮の造幣局をつくる世話もするなど様々な事業に関わり、新生の胎動を続ける関西で活躍を続けます。
晩年は着物を着用して「浜田彦蔵」と名乗り、妻の銀子夫人もヒコのことを「あなた」と日本流に呼んだそうですが、ついに日本国籍は得られず、病気療養のため訪れた東京青山の外国人墓地に葬られました。国籍法が定められたのは、ヒコの死から二年後のことです。


ジョセフ彦 碑

上部が英文、下部が漢文で書かれている

日本人でありながらアメリカ側の人間として扱われ、ふたつの祖国のはざまで揺れ動きつつ、生き抜いた、ジョセフ・ヒコという人物を私が知ったのは、兵庫大仏のある能福寺(神戸市兵庫区北逆瀬川町)の境内で、日本最初の英文の碑なるものを見たときのことです。碑が建てられた明治二十五年からさかのぼること約千百年前、唐への留学から帰国した伝教大師(最澄)の創建になる教化道場(寺)であるといった旨の説明が、英語と漢文で書かれていたのです。(この寺は、海を愛し神戸・福原に都を還した平清盛が剃髪して「淨海」と名乗った寺でもあります)。
この碑を記述した人物の主旨に興味を抱いた私は、鎖国下の日本から、はからずもアメリカへ渡ったヒコという人物について調べるうち、ジョン万次郎に勝るとも劣らぬ、その数奇な生涯に驚き、感動し、いつの日かこれをドラマに出来ないものかと構想を暖めてきたのでした。

■「ベルばら」から白州次郎へ。新しい可能性を切り拓く宝塚歌劇

昨年、宝塚歌劇は、旧三田藩士の末裔として阪神間に育ち、吉田茂首相の秘書官として敗戦後の日本復興に尽力した、白洲次郎を主人公にすえたミュージカルを上演しています。ロマンチックな「絵空事」の世界ばかりでなく、近代日本のリアルな人間群像に歌劇もふみこむようになってきたわけです。
そこには、『ベルサイユのばら』が介在しています。
1974年に「ベルばら」が登場するまでの宝塚歌劇団の約十年間は、アメリカの『ウエストサイドストーリー』の影響を受け、またフランス式のレビューの人気も根強く、面白い舞台が沢山ありましたが、客席には空席がめだちました。というのも、60年代半ばから本場のミュージカルが続々と来日するようになり、63年には越路吹雪と松本幸四郎(当時・市川染五郎)が本邦初の本格ミュージカル『王様と私』を旧梅田コマ劇場で上演しました。それまで「洋風」の独断場だった宝塚のアイデンティティーが揺らぎ始めたのです。
そこに起死回生を担って登場した「ベルばら」は、男性として育てられた女性オスカルが、男の格好をして活躍し、つよい意志で革命に殉ずる一方、アンドレに愛され、愛するというラブロマンスも演じたのです。それは通常の男と女の恋愛ではなく、同志愛でもありました。
こうして、男優の代替物だった男役が、女性の演じる男役でしか表現できない形で登場したわけです。
池田理代子さん(東淀川区うまれ、新庄小学校卒)が「ベルばら」の原作を書いた1972年当時、女性はまだ社会に進出できていませんでした。60年代の高度成長期、男は猛烈サラリーマン、女は専業主婦となるのが一般的で、少女漫画も手塚治虫や石ノ森章太郎が手がけてはいたものの、戦後デモクラシーの中で育った女性たちに、自立を願う気持ちが芽生えていたのでしょう。男性作家の描く、男にとっての在る種の理想的な女性像、優しくて従順で可愛げのある女性ではない女性像が、自立志向の女性たちを刺激したのです。
ベルばら」の原作が、架空の人物を織り交ぜながら、史実に基づく社会性のある骨太のドラマとなっていたことも、女性の共感を呼ぶ要素だったと考えられます。もっとも、女性が女性のままではなく、男性の格好をしているという点では、そうでなければ男社会には出て行けなかったという過渡期の時代でもありました。
80年代から女性の進出が進み、86年には雇用機会均等法が成立して、宝塚にも女性の演出家が登場し、舞台のありようも多様化していきました。この間、宝塚は「ベルばら」の再演をくり返し、多くの観客を動員してきました。初演時のように大勢の若い女性を巻き込む社会現象にはなっていませんが、少女時代そこに「」の世界を見て、やがて子育てをしたり企業で働いたりする中で男社会の中の女性を痛感し、再び絵空事を楽しもうと足を運ぶ観客も少なくない一方、宝塚に「」だけを求めるのではなく、リアルな人間像を求めるようにもなりました。
大和和紀など、女性漫画家の作品が続々と歌劇の舞台に取り上げられるようになったことで、歌劇は新しい可能性を切り拓いていったわけです。

【連載第8回】義太夫節とシャンソン

(2009年9月15日公開)

 

八月。

但馬の出石(兵庫県豊岡市)の「永楽館」(近畿最古の芝居小屋)でおこなわれた歌舞伎公演は、中村翫雀・片岡愛之助・坂東薪車・・・大阪に住まいを持つ俳優たちが中心となった一座でした。

私が目を見張ったのは、定式幕が上手(客席から見て舞台の右側)から下手(左側)へ開き、下手から上手へ閉まるという、大阪の伝統的なスタイルでした。これは、上手に座って語る「義太夫」を最後まできっちり客席に聞かせようと配慮する型であり、音楽劇としてまっとうなやり方ですが、昭和10年代から徐々に、大阪も東京式に上手から下手へ閉まるようになっていったようです。

■松本幸四郎の弁慶が本舞台で転倒!?

そこには、こんなエピソードが介在していました。
明治・大正・昭和の三代にまたがって大阪の歌舞伎界に君臨したスーパースター、初代中村鴈治郎(1860~1935、現・中村翫雀の曽祖父。死去の際は大阪の街に号外が出ました)の没後まもなく、東京から来演した七代目松本幸四郎(1870~1949)の演じる『勧進帳』の弁慶が、本舞台から下手へ向い花道へと差しかかるという幕切れの場面で、なんと、下手から逆向きに走ってくる幕引きと衝突して転倒しまったのです!!(東京式では上手から、つまり役者の背後から走ってくる形となりますから、ありえません)。それに懲りたのか、大阪劇場も東京式に上手から下手へ引くことになっていったということのようです。鴈治郎という東京にもにらみのきく巨大な存在を失った大阪の劇界は、東京式を拒否できなくなったというわけでした。

■日本の声楽は、大阪の義太夫節

永楽館では、京阪神の都心部では見られなくなった、その旧来の型が見られただけに、新鮮に映ったのです。(野外では西日本一と言われる丹波篠山の能舞台にしても、出石の永楽館にしても、古くから栄えた城下町でありつつ鉄道の幹線から外れてしまったことが、却って貴重な遺産を残してくれたともいえるでしょうか)。

つまり、それほどまでに、大阪では義太夫の語りというものが重んじられてきたわけです。
では、「義太夫節」とは、いったい、どういうものなのでしょう?
実は、この義太夫節で語られている「浄瑠璃言葉」こそ、近世日本の共通語であり、標準語だったのです。

中世末期。三味線楽器が堺に渡来しました。
それまで日本には、語り物系統の「謡」は存在しても、器楽的な発想から出発した「歌」はありませんでしたが、三味線は、撥絃(はじいて鳴らす)楽器という日本歌唱の特性に合致するリズム楽器でありながら、メロディーを伝える音階楽器の性格もあわせもっていました。三味線は、繊細かつ哀調を帯びた音色で戦国の世に倦んだ民衆の心をいやし、その人間的な感情を解き放ってくれました。
三味線を伴奏とする最古の日本歌曲として堺に伝わる「組歌」は、当時の民謡や流行歌を組み合わせて作られています。今も大阪の邦楽で重要な位置を占める地唄は、洋楽でいえばギタアで伴奏するフォークソングのようなものだったと言えるでしょう。こうした新興の「」と、古来の「」との、対立と融合の中から発達して国民「歌謡」となったのが、近世の浄瑠璃であり、なかでも日本人の心を深く捉えたのが義太夫節だったのです。
義太夫節は、その名の通り、元禄の大阪がうんだミュージシャン竹本義太夫(初代、1651~1714)が創始したもので、人形芝居(文楽などの人形浄瑠璃)と提携した劇音楽として非常な発達を遂げますが、素浄瑠璃といって音楽だけを演奏することもありますし、歌舞伎ではとりわけ重要な伴奏音楽となっていて、人形浄瑠璃から移入した作品(丸本物とよばれます)はもとより、歌舞伎オリジナルの作品でも(大阪製の歌舞伎のみならず江戸歌舞伎であっても)義太夫節をひんぱんに用います。
この義太夫節により歌舞伎や人形浄瑠璃(文楽)の様式も確立していき、近松門左衛門の数々の名作や、『仮名手本忠臣蔵』をはじめとする江戸時代の国民劇が続々と大阪の芝居町から生まれることとなりました(それは西欧でオペラが確立していく時期に当たりました。ヨーロッパの声楽家たちが、日本人の声楽として受けとめているのは、中世の謡曲でも江戸の長唄でもなく、大阪の義太夫節のようです。義太夫節の演奏は、今の日本人にはオーバーに過ぎると感じられるかもしれませんが、いちばんの聞かせどころである「さわり」の部分は、オペラの「アリア」に当たるわけです。ドイツ・オーストリアを舞台に活躍する、オペラ作曲家の久保摩耶子さんは、大阪音大を卒業して渡欧し、ヨーロッパでの生活が30年以上になりますが、義太夫節が大好きとのことで、日本に滞在中は、国立文楽劇場での観劇はもちろん、みずから浄瑠璃教室に通うほど「はまっている」そうです)

大阪製の浄瑠璃言葉は十八世紀を通じて全国津々浦々に浸透していき、これはすなわち大阪商人が全国の人々を相手に取引する言葉を手にしたことを意味します。大黒屋光大夫や高田屋嘉兵衛といった、鎖国下で海外に渡った商人や船乗りたちも、船の中に浄瑠璃本を携えていたことが判明しています。

■『心中天の網島』
をシャンソンに仕立てる

義太夫節は、旋律をつけずに語る「詞(ことば)」と、旋律をつけて語る「地(じ)」に大別できます。詞は「せりふ」に相当する部分が主体となっていて、地は全体の状況や叙景、人物の行動や心理や思考などをふくみます。そして、義太夫節固有の旋律もあれば、他の音楽から摂取した旋律もあって、これはフランスのシャンソンと似ています。シャンソンも、「歌」と「語り」によってドラマが織りなされていき、ジャズやタンゴなどの音楽も柔軟に摂り入れているからです。

 フランス革命から二百年に当たる、1989年(平成元年)、近松門左衛門の『心中天の網島』をシャンソンに仕立てるという試みが尼崎・つかしんホールであり、のちに大阪市役所シティホールで再演されました。この企画を立てたプロデューサーは私で、この曲はパリでも上演されたことがあります。さきに述べたように、シャンソンと浄瑠璃の共通点(それは日本とフランスのポピュラー芸術の共通点にもつながります)に着目した企画であることは言うまでもありません。

■シャンソン歌手から評論家稼業へ

 私は、若い頃、シャンソンを歌っていた時期があります。ひょんなことでオーディションを受けたところ、意外にも通ってしまい、ライブハウスやナイトクラブで歌うことになったのです。

オーディションを通過するには得意な曲を二、三曲こなせば済みますが、実際にお客さんの前で芸を披露するとなると、私の歌は三曲目くらいから飽きられてしまうと判明しました。これにはショックを受けましたが、考えてみれば、自分の好きな曲や歌いたい曲というのは、二枚目気取りの歌が多いものです。それでも、これが女性歌手なら、ちょっと綺麗で声が良ければ、何曲カッコつけて歌ったところで許されるかもしれませんが、一人前の男がカッコつけてばかりいると、なんだか陳腐に見えてくるものです。
 要するに、ひとかどの男性歌手というのは、三枚目の唄が歌えなければ駄目だということがだんだんわかってきたのですが、これが難しいのです。
それで思案したあげく、一曲歌う前に、その曲が成立した背景や、フランス語の原詞にあるドラマ性を解説してみることにしました(シャンソンは一幕物のドラマと言われてきました)。日本語の訳詞では対応しきれない、シャンソンの深さや広がり、劇的な構成を知ってもらうことで、私の単調な歌も少しは味わいが増すのでは―そう都合よく考えたわけですが、これが予想以上に好評でした。お客さんが私の話に耳を傾けているのが、実感として伝わってくるのです。そうこうするうちに、先輩歌手たちからも前座のような形で解説してくれないかと頼まれるようになり、どうやら自分には「歌」より「話」のほうが向いていると気づいたという次第で、これが評論家稼業の始まりとなりました。

 それにしても、真実の心をこめて歌っている(つもりの)歌より、適度にハッタリも混じえて語る(騙る)話のほうがウケるというのは不思議な思いもしましたが、自分のやりたい役と、向いている役とが一致しないというディレンマは、若い俳優がしょっちゅう経験することでしょう。

■「離見の見」は「己を掘る」作業

そんな溝を埋めていき、自分にしか出来ない役どころを演じられるようになる―つまり、自分が望むもの(自我)と、自分に望まれているもの(他我)との重なるところに己の芸境が拓けていくのですが。それを可能にするには、己を突きはなして客観的に見る「離見の見(りけんのけん)」が必要だと世阿弥は言っています。「我見の見(がけんのけん)」では駄目なのです。心の奥に潜んでいる無意識の鉱脈を浮かび上がらせ、自分でも気づかなかった個性が表れるまで、気長に修業するほかありません。それは「己を掘る」作業だといえるでしょうか。

【連載第7回】死者たちの歴史の上に私たちは生きている

(2009年8月17日公開)

 

 八月に入ると、日本人の心は「戦争という物語」へ連れ戻されます。同時に、この季節は、高校野球のニュースが国民的な話題となる時でもあります。

夏の大会が幕を開けるとまもなく、ヒロシマ・ナガサキとつづく原爆忌......。やがて終戦の日の正午になると、戦争を知らぬ球児たちがプレイを中断して、おごそかに黙祷を捧げます。そして、プレイが再開して数日後、めでたく優勝校が決まるという筋書きとなっているのです。(アメリカ製の原子爆弾に息の根を止められた日本近代のエネルギーが、アメリカ製のベースボールによって息を吹き返すという、皮肉な構図...)
自然の繁殖力が頂点に達する、蒸し暑い夏の盛り。甲子園で繰りひろげられる青春ドラマに日本人が心惹かれてきたのは、戦争で命を散らせた若人たちの姿を、ひたむきな球児たちの姿に重ね合わせてきたことがベースにあるからではないでしょうか。奇しくも時は、死者が還ると信じられた、お盆の季節...。

未曾有の敗戦と奇跡の復興という昭和日本の「再生」のドラマを少年野球でなぞることにより、歴史の共有と民族の活力のよみがえりとを日本人は確認してきたと考えられるのです。夏の高校野球に「清純」や「アマチュアリズム」が過度に要求されるというのも、汗と泥にまみれグラウンドに白球を追う丸刈りの少年たちを、戦場で散った尊い命の生まれ変わりと見なすなら合点いくことでしょう。

■夏の甲子園や年末の「第九」に込められた、日本人の思い

大阪城ホールの「一万人の第九」(佐渡裕・指揮)をはじめ、全国津々浦々で師走名物となった第九シンフォニーの演奏会も、日本だけに見られる現象であり、作曲者のベートーベンをうんだドイツには見られません。
その原点をさかのぼると、敗色濃い第二次大戦末期、学徒出陣で戦地へ赴く学生たちを見送る際、第九が演奏されたことに行き着きます(戦争中、敵国だったアメリカ・イギリスの文化芸能は禁止されましたが、同盟国ドイツの音楽は観賞できました。終戦の二か月前にも日本交響楽団―現・NHK交響楽団が第九を演奏しています)。
そして、終戦―命永らえて祖国へ生還した青年たちが、戦場に散った仲間たちをしのんで、第九を再び合唱したことから、去りゆく一年(軍国日本)を厳粛に見送り、澄んだ気持ちと共に新しい年(新生日本)を迎えいれる儀式として、しだいに「師走の第九」は定着していったようです。
日本人にしか解りえぬ宗教的な意味合いが込められた、夏の甲子園や、年末の「第九」の隆盛を見るに、痛切な思い出に支えられてこそ明日を生き抜く活力を得る、という見方ができるかもしれません。

■過去から逃れることが出来ないとしたら...

人間の心の不幸は、そのほとんどが「記憶」に由来するといっても過言ではありません。どんなに辛いことがあっても、それを覚えてさえいなければ苦しむことはないからです。だから、いっそのことんでしまえば楽になれる―そう思いつめる人が出てくるのも無理からぬことですが、それなら、んでしまえば本当に人間の記憶というのは消え失せるものなのでしょうか。
天神(菅原道真)信仰の例をひくまでもなく、非業のうちに死んでいった人々の霊を日本人が丁重に祀ってきたのは、故人の妄執が生き続けて災いを及ぼすことを恐れたからでした。
過去から逃れることなど、けっして出来ないのだとしたら、痛ましい思い出を心の糧にして生きていく道もあるかと思われます。

■人生の達人は「忘れること」と「思い出すこと」の達人

はるかな昔。人間という、進化する生き物は、殖え続ける知覚や感覚を小さな頭の中に収めることができなくなって、生活の維持や専門的な職業のために日々欠かせぬ情報を除き「いったん忘れる」技を体得しました(そうしなければ、日々あらたな情報をインプットしてやまぬ頭部は際限なく肥大をつづけ、人類は直立できなくなっていたことでしょう)。そして、それら忘れられた記憶群を時と場合に応じて人は「思い出す」ことにしたというわけです。(犬がいつまでも元の飼い主を覚えていたり、猫が昔の家を記憶していたりするのは、片時も忘れず覚えているということであり、いったん忘れてしまえば思い出すことはないようです) 
そんな人間の記憶操縦のコンダクターの役をはたしてくれるのが「脳」です。人が死ぬとき全生涯が走馬灯のように浮かび上がるとか言われるのは、実生活の要請に基づく記憶の選択から脳が解放され、過去のすべての思い出が押し寄せてくるからでしょう。
 ただし、日々雑事に追いまくられていると、自分の心にとって重大な意味を持つことでも、なかなか思い出す余裕などありません。狭い思い込みの中を堂々巡りする毎日の繰り返し、ということになってしまいがちです。

ここに「文化」の出番があるのではないでしょうか。
たとえば未知の芸術作品に接して私たちが感動するということは、単なる物珍しさ故ではなく、心の奥に潜んで、自分でも気づかなかった(もしかしたら太古の祖先から受け継いできたかもしれぬ)深い深い心の記憶を、芸術が呼び戻してくれたということになるのかもしれません。
埋もれていた記憶が呼びさまされると、イマジネーションを喚起する能力が活性化され、人間の選択肢もぐっと殖えます。

『知らないという事と忘れたという事は違う。忘れるには学問をしなければならない。忘れた後に本当の学問の効果が残る』(内田百閒)

人を人たらしめているのは、この「忘れる」+「思い出す」能力であり、人生の達人とは、忘れることと、思い出すこと、両方の達人とも言ってもよいでしょう。

■「」に深く思いを寄せるとき、芸術は神聖な姿を表わす

死後も消えやらぬ情念や悔恨など、人間のの深さを浮き彫りにして、ゆかりの土地をさまよう亡霊や救いへの渇望を描くというのが、世阿弥(1363?~1443?)のつくりあげた「夢幻能」の世界でした。

能がうまれた時代は、源平の争乱や古代のさまざまな出来事が日本人の心に沈殿していき、それらを国民的記憶として受けとめることができるようになった時代でした。過去をあるがままに振り返れるところまで、日本人の心は成熟していきました。(かたや戦後の日本人は、先の大戦の全体像を過不足なく思い出すことが、まだ出来ないでいるようです)
中世の戦乱の世は、日常的に死を見る時代でしたから、そんな修羅場を潜り抜けてきた武人の体験が、最終的にシテ(能の主役)の肉体へと凝縮されていき、沈潜した芸境へと昇華していきました。
能楽堂の客席に座る見物は、全員がそれぞれ違うことを考えたり感じたりしているわけですが、シテは黙って座っているだけで、見物の人々が考えたり感じたりするリズムを司っています。
そこには、人間が生まれて死ぬということが、この世の森羅万象と如何に関わっているのかを探ろうとする試みがあり、そこに表れたコスモロジー(世界観)を体の中に摂り入れたところが、能という芸術の、時代を超えた強さ深さの秘訣でしょう。
」に深く思いを寄せるとき芸術は神聖な姿を表すのです。

■古今東西の演劇では、亡霊たちが重要なキャラクター

死者が現世の人間の間に現れて、この世への執着や恨みを語るという、能の形式に西洋の文学者たちは早くから注目してきました。
みずからの劇に能の形式を摂り入れたアイルランドの詩人・劇作家イエーツ(1865年~1939年)晩年の『煉獄』は、死後もゆかりの土地をさまよう亡霊や死者の悔恨、そして人間の救いへの渇望を描いています。我が子を失った母親の悲しみが胸を打つ能の『隅田川』も早くから翻案されて、イギリスの作曲家ブリテンの『カーリュー・リバー』のように何度かオペラ化もされてきました。それが逆輸入の形で日本に入ってきて、現代能として上演されたこともあります。
非業のうちに死んでいった菅原道真能の主役となるのは当然の成り行きでしたし、シェークスピアの『ハムレット』等の例をひくまでもなく、古今東西の演劇において亡霊たちは重要なキャラクターとなってきました。
死者たちの築いてきた歴史の堆積の上に私たちは生きているのであり、すぐれた古典劇は観客の心の奥深くから死者の魂(人間の潜在的な無意識)を呼び起こしてくれるものなのです。

■父から受け継いだ最も大切なものは...

村上春樹氏の『羊をめぐる冒険』や『ダンス・ダンス・ダンス』など初期の小説に登場する「羊男」も、そんな過去の亡霊の集合体と考えられます。
中肉中背、ガニ股ぎみで、くたびれた、童顔の、中年男。羊の毛皮を冠ってはいるが、どこか身に合わぬ―そんな珍妙な羊男の姿こそは、〈西洋〉という毛皮を冠って近代化というレールを走ってきたものの、いつしか深い疲労感に襲われている、現代日本人の戯画でもあるでしょうか。

六十年代に吹き荒れた若者たちの反乱が去った後の「凪の風景」をあざやかに切り取って、七十年代の終わりに村上春樹が登場したときの、静かな衝撃は今も忘れることができません。
政治や社会について言及することを注意深く避け、父なるものを書かないことで、戦前の日本を清算する世界を描いてきた村上氏が、最新作『IQ84』で〈父の死〉を取り上げています。
「...父の体がベッドに残すくぼみ...父の空白を自身の熱い空白で埋める瞬間...」
春樹氏の父である、村上千秋氏は昨年なくなっています。お別れ会には私も参加し、春樹氏と直接に話もしました。
村上千秋という人は、学徒出陣で中国戦線に送られ、おびただしい死と遭遇したといわれます。毎朝のように長いお経を唱える父親の背に死の影が漂うのを見て少年時代を送ったという村上氏は、父の心の傷が自分の傷になったと、オランダの作家イオン・ブルマのインタビューで語っています。今年二月のエルサレム賞受賞時のスピーチでも、父の胸にしまいこまれた死の存在父から受け継いだ最も大切なものの一つ、というふうに語りました。
〈村上は子供の頃に一度、父親がドキッとするような中国での経験を語ってくれたのを覚えている。その話がどういうものだったかは記憶にない。目撃談だったかも知れない。あるいは、自らが手を下したことかも知れない。ともかくひどく悲しかったのを覚えている。〉『イアン・ブルマの日本探訪』
〈ただひとつ私の申し上げたいのは、私たちは、あなたと同じようなごく普通の青年であったということです。私は軍人になりたいと思ったことなぞただの一度もなかった。私は教師になりたかったのです。しかし大学を出てすぐに召集を受け、半ば強制的に幹部候補生になり、そのまま内地には戻されることなく終わってしまいました。私の人生なぞはかない夢のようなものです。〉村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』

そんなふうに描かれている、村上千秋先生の国語の授業を受けた、教え子の一人が、私(河内厚郎)です。


河内厚郎氏コーディネート『日本文化ゼミ』開講
駅前第二ビル4F、キャンパスポート大阪(06-6210-3620)で開講している、「関西社会人大学院連合」の『日本文化ゼミ』を一昨年からコーディネイトしています。講師には、有栖川有栖(ミステリー文芸)、桂吉坊(上方落語)、高島幸次(天神祭)、笠谷和比古(武士道)、関基久(「ロイヤルホース」オーナー)など、各界の人材を招いています。次回の講座は「情報社会のコンテンツ」がテーマです。
【概要】
デジタル化・IT化の急速な進展に伴い、マスコミの世界に転機がおとずれています。その現状と、将来の展望とを、各界の現場でコンテンツ制作に関わってきた専門家が語ります。テレビで見慣れた顔も講師陣に加わります。
2010年
・1月14日(木)「広告業界の最前線」博報堂・CMディレクター 今村荘三
・1月28日(木)「テレビショッピングの舞台裏」タレント 高橋知裕
・2月11日(木)「テレビドラマ制作・今昔」  前・NHKプラネット近畿総支社番組制作センター部長(現・NHK大阪ホール副支配人) 永山あつし
・2月25日(木) 「タウン誌・フリーペーパーの今後」 タウン誌編集者 岩城則子

【連載第6回】足元は宝の山なのに、なぜコナモンやビリケンを喧伝したがる?

(2009年7月17日公開)

 

上方落語の定席(常打小屋)として、ほぼ半世紀ぶりに復活した「天満繁昌亭」の成功因は、一つには漫才を参入させなかったことにあると巷間噂されています。

そうだとしたら、大阪でも総合店より専門店が求められていたということになり、「五目飯のように何でもありの<ごった煮>こそ大阪的といった従来の言い草はウソだったことになります。かつては<食の百貨店>として家族客を集めた道頓堀の「くいだおれ」や東京上野の「聚楽台」が閉店やむなきに到ったのも、そうした時代の流れから理解できます。

■伝統芸能に絞りこんで成功
「上方伝統芸能ナイト」

海外からの観光客がふえつづける、大阪城公園からほど近い、山本能楽堂の<上方伝統芸能ナイト>も観光客に(地元市民にも)好評のようです。

毎月2回、土曜の夜七時半から百分程度、能・狂言・文楽・上方舞・講談...さまざまな地元の伝統芸能の中から四つのジャンルを選び、そのハイライト部分を、若手落語家の解説付きでメドレー風に上演するという趣向で、食事も可。ミナミ島之内のお茶屋からお座敷遊びも出張しています。8月15日の公演から四か国語の字幕が付くことになりました。

こうしたやり方は、一見は五目飯ふうに見えるかもしれませんが、伝統芸能に絞りこんだのが成功因で、京都のギオンコーナーと似た手法です。(ギオンコーナーには連日のように文楽の若手芸人たちが大阪から出かけてはアルバイト出演するので、文楽を京都の遺産だと思う外国人観光客も少なくないとか)

■きちんと、親切に、大阪のブランドを開陳していけばよい。

山本能楽堂」は、地下鉄「谷町四丁目」駅から徒歩2分。大阪の都心に、社のような佇まいを見せる能楽堂です。昭和二年に建てられた舞台は戦火で焼失、昭和25年に再建して現在に至ります。3階建の木造建築。平成18年12月、国の登録有形文化財の指定を受けました。(一部椅子席)。

鏡板(本舞台正面の松の絵)は、老松を下から見上げるという珍しい形。橋掛かりの欄干は、ゆるやかな弓状を描き、能舞台にやわらかさを添えています。見所(客席)は(今や全国的にも珍しく)1、2階とも桟敷。2階席には茶室もあり、そこから見る能舞台を、いっそう重量感あるものにしています。舞台下に大きな瓶が九個並べられているのは音響効果をよくするためですが、新しい舞台に瓶が埋められることも少なくなった今、希少なものとなりました(見学可能)。 この舞台で<上方伝統芸能ナイト>を鑑賞して「テレビでは知りえない、ホンモノの大阪文化を知って感動した」という声を、少なからぬ観光客から耳にしました。要するに、きちんと、親切に、大阪のブランドを開陳していけばよいということに尽きるのではないでしょうか。ということは、「大阪は京都と同じやり方では通用しないと信じこまされていた向きは欺されていたことにもなります。

■「何でもあり」は「何もない」「なにわなんでも検定」

せっかくの「大阪検定」の試みが今ひとつ盛り上がりを欠いたのも、同様の理由のせいではないかと思うのです。「なにわなんでも大阪検定」といった<ごった煮>的キャッチフレーズじたいが、ちょっと時代遅れです。「何でもあり」は「何にもない」という印象すら与えかねません。作成に携った関係者は「京都検定と同じことをしてもダメだと思った」ようですが、さあ、そうでしょうか。東京のテレビ局では、みのもんた氏が、笑えるオチまでついているような、大阪検定のことを「お笑い検定」でもあるかのように揶揄していました。

■足元は宝の山なのに、なぜコナモンやビリケンを喧伝したがる?

上方舞の四流派のうち三つ(山村・吉村・楳茂都)は大阪が本拠地ですし、華道(生け花)にしても未生流や小原流といった大流派は大阪で生まれ育ち、今も健在です。「昭和の源氏物語」と呼ばれて海外でも名高い谷崎潤一郎の名作細雪』は、そんな大阪のブランド尽くしの小説として知られているのです。
芸能・文学・学術・景観...こうした諸々の要因が歴史ある「場」に絡み合い積み重なって都市のブランドは成立しますが、かつての大阪ブランドの標準テキストが、谷崎潤一郎の『細雪』や『春琴抄』です。ここには、料亭なら播半・吉兆生け花未生流生田流地唄舞山村芝居(歌舞伎)は鴈治郎落語春団治、そして文楽...大阪のブランドが列挙されています。 足元は宝の山なのに、なぜコナモンやビリケンを先に喧伝したがるのでしょう。何世紀もの間に培った文化的アイデンティティを基にして己の文化をアピールしようとしないから、もともと大阪産のブランドが京都に暖簾分けされて、そちらがもてはやされるといった、笑えない冗談のようなケースも少なからず出てくる始末です。
己をチープに売るようになると、歯止めなく都市格が低下するという、都市像のデフレ・スパイラルが起こります。東京のキー局が大阪のメジャーな遺産には目を向けず、マイナーなサブカルチャーを好んで報道しようとするせいで、いつしか在阪民放局もそれにならうようになってしまいました。
これほど自分の来歴と文化をきちんと語らなくなった大都会というのは、世界中を探しても見当たりません。大阪市東淀川区の大学へ講演に行った折のことです。その大学の住所が「大隅(おおすみ)」とあったので、『日本書紀』に出てくる、応神天皇の都が置かれた難波大隅宮にゆかりあるのでは、という話をしてみました。学長も、職員も、私を斡旋した広告代理店の社員も、まったく反応を示しませんでした。よほど足元の歴史に興味がないのでしょう。(それでも女子学生たちは興味を示してくれたように見受けたのです)

■ 時代を超えて継承されてきた文化に、アイデンティティを置く。

大阪という街は、どんな歴史を背負っているのでしょう。 難波(なにわ)と呼ばれた古代には、港町として栄え何度か首都にも選ばれました。中世には宗教都市(四天王寺・大坂本願寺...)の相貌もそなえるようになります。豊臣時代には政治首都。徳川時代には商都となり学芸も栄え、近代には工業都市となるという具合に、大阪は時代ごとに相貌を大きく変えながら長い歴史を生き抜いてきました。
 それなのに、天下の台所(物流拠点としての商都)や、東洋のマンチェスター(工業地帯、煙の都)といった、或る特定の時代に繁栄した産業基盤によりかかったキャッチフレーズをアイデンティティに据えたがる傾向があるため、産業構造が劇的に転換する今のような時代にうまく対応できなくなってしまうのです。それどころか近年は、東京キー局主導のマスコミにより、ほんの2、30年くらいの間に浸透した固定観念に頼って己を語り過ぎではないでしょうか。
かたや京都は古くからの商業都市であり内陸型の工業都市でもありますが、商都や工都をけっして看板に掲げず「古都」「文化都市」をたえず押し出し続けることで、企業や商店のブランドイメージを押し上げてきました。特定の産業構造によりかからず、時代を超えて継承されてきた文化のほうにアイデンティティを置くなら、風土としての特性や潜在的な地域の記憶をたえず意識することになり、そこで生き抜く自覚を住民に促すことにもなり、ひいては経済の活力にもつながっていくと考えられます。 大阪も足元のヘリテージ(遺産)を再検証すれば、まだまだ宝の山が埋もれていると気づくはずです。

■現在の歌舞伎は、18世紀の大坂が生み育てた。

7月2日、大阪に本格的な夏の到来を知らせる、恒例の「船乗り込み」が今年も盛大に行われました。

代表世話人である私も、松竹座の七月大歌舞伎に出演する歌舞伎俳優たちと同乗して道頓堀を巡行し、水都の風情を満喫しました。これも江戸時代から何百年と続く大阪のブランド歳時記といってよいでしょう。松竹映画『残菊物語』(1963)のラストに登場する船乗り込みのシーンを見て大阪という町が印象づけられた、そう語る外国人を私は何人も知っています。


MEET OSAKA より


 ところで、その歌舞伎といえば、学校でも、カルチャーセンターでも、草創期からせいぜい元禄歌舞伎くらいまでの十七世紀の事例が講義の主体となって教えられていますが、これはオカシイと思います。初心者に講義する際、「出雲の阿国」や「傾(かぶ)き者」の説明講釈から始めるのが通例となっているせいでしょうが、十七世紀当時の舞台は現行の歌舞伎とは似ても似つかぬものだったはずです。

 まず第一に、出雲の阿国は女優であって、歌舞伎を色濃く特色づけている女形ではありません当時の芝居は今には伝わっていませんし、もちろん上演もされていません。にもかかわらず、受講生のレポートを読むと、インターネットから孫引きしたらしき「出雲の阿国」「傾く」「若衆歌舞伎」といった文字が、おそらくは何の実感も伴わぬまま並べられているのです。

 いま私たちが歌舞伎と呼んでいる日本の国劇は、16世紀に大阪湾岸へ渡来した三味線音楽が浸透していき、18世紀の大阪で完成した音楽劇ということができます。なかでも大阪で発達した義太夫節が伴奏音楽として定着してからの作品群が、古典歌舞伎の最重要演目となりました。回り舞台やセリなど独特な歌舞伎劇場の構造も、かなりの部分が18世紀中葉から道頓堀の興行街で形成されていきます。

 市井を舞台にした世話物(せわもの)に到っては、幕末から明治初期にかけての風俗が背景とすらいってよく、だから上方落語と時代風俗も重なり、現代人にも親しみやすいわけです。(大阪の落語は歌舞伎を素材にした芝居噺"しばいばなし"が多く、元の歌舞伎を知らないと芝居噺を味わう娯しみは半減します) もちろん時代物でも、『仮名手本忠臣蔵』『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』などの国民劇が、続々と芝居町の道頓堀からうまれていきました。あの「忠臣蔵」事件は、江戸と赤穂で起こった事件ながら、それを日本人の国民的ドラマ(「仮名手本忠臣蔵」)に仕立てたのは芝居町・道頓堀でした。廻り舞台、セリ(大ゼリ小ゼリ)、すっぽん(花道のセリ)、がんどう返し、屋台崩し、引枠...わが国が誇る様々な舞台機構も道頓堀の芝居町で開発されました(四国こんぴらの金丸座は、天保年間の道頓堀の芝居小屋を模して建てられたものです)。ですから、現在の歌舞伎は18世紀の大坂が生み育てたと明言してもよいのです。

■ 「芝翫香」は、初代中村芝翫好みの香料など小間物を販売した老舗

実際いたるところに「歌舞伎の古都」らしさは見られます。たとえば、上方歌舞伎の歴代の俳優たちの墓所が密集する、中央区・中寺町の界隈です。
常國寺には、「大阪の顔」と謳われ、明治・大正・昭和にまたがり芝居町・道頓堀に君臨した初代中村鴈治郎(1860~1935)や、幕末の名優、四世中村歌右衛門(1798~1852)らが眠ります。
正法寺には、回り舞台を発明した歌舞伎作者・初代並木正三と組んで活躍した初代中村歌右衛門(1714~1791)や、映画や芝居の『男の花道の主人公となった三代目歌右衛門(1778~1839)や、三代目中村芝翫(1810~1847)、難波(なんば)に住んだので〈難波の太夫〉と呼ばれた二代目中村富十郎(1786~1855)が眠っています。
妙徳寺には中村梅玉家の墓があります。重厚な芸風で、日蓮上人を当たり役とした、二代目梅玉(1842~1921)のブロンズ像が境内に建ちます。やこう薬王寺には、片岡仁左衛門家や、女形の舞踊劇として名高い「娘道成寺」を初演した初代富十郎(1721~1786)、圓妙寺には実川延若家の墓があります。二代目延若(1877~1951)は切手にも登場した名優で、風情のある旧宅が上本町に今も残っています。
浮世絵や切手に登場する名優たちの墓所がずらりと並ぶのは壮観です。こうして見てくると、今は東京の名跡になっている俳優の名も、大阪にルーツのある例が少なくないことに気づくのです。市川団十郎・尾上菊五郎・岩井半四郎といった江戸歌舞伎の名跡の中にも、上町台地に眠る俳優がいます。
心斎橋一丁目の「芝翫(しかん) 香(こう)」は、1813(文化10)年、現・大丸百貨店の向かいに、初代中村芝翫(三代目歌右衛門の前名)好みの香料梅ヶ香」や櫛、簪、袋物、喫煙具等、小間物を販売したことに始まる老舗です。やはり人気役者の名にちなんで名づけられた「扇雀飴」本舗も中寺町から遠からぬところにあります。

■ 「河内厚郎対談シリーズ この人に聴く」
ミステリー作家・有栖川有栖さん

9月6日(日)13時~15時 NHK文化センター西宮ガーデンズ教室「河内厚郎対談シリーズ この人に聴く」では、大阪在住のミステリー作家・有栖川有栖さんを招き、『モルグ街の殺人』の作者エドガー・アラン・ポーの生誕二百年や、社会派ミステリーの巨匠・松本清張の生誕百年、また江戸川乱歩の大阪時代などを語り合います。

連載第5回(2009年6月15日公開)シェイクスピア劇の初演は、大阪だった!


阪神なんば線の開通で、古都奈良と姫路城をむすぶ「世界遺産特急」を期待すると同時に、途中の大阪に世界遺産がないのを嘆く声があるようです。

しかし、ちょっと待ってください。歌舞伎と文楽は、日本が誇る無形世界遺産であり、大阪には、関西歌舞伎のホームグランドである松竹座と、文楽のナショナル・シアターがあるのです。 今夏、その歌舞伎と文楽がシェイクスピア劇に挑みます。

■文楽の総力をあげ、
シェイクスピア作品の決定版に

歴史上もっとも著名な劇作家といえば、ウィリアム・シェイクスピア(1564~1616)でしょう。
大阪松竹座の7月大歌舞伎では、そのシェイクスピアのロマンチック・コメディ『十二夜』が翻案上演されます。次々起こる双子の取り違いや、めぐりめぐる片思いの輪......人間の悲哀と滑稽、理知と不条理を描いた傑作喜劇を、日本の中世に時代設定した蜷川幸雄の演出は、鏡を多用した演出、縦横に船を動かす幕開きの遭難シーン、蒔絵を施した漆塗りの箱のようなセット・・・・(五月末、旭区の芸術創造館マンスリーシアターで上演された「十二夜!ヤァ!yah!~御意のまんまに~」〈大阪市主催〉は、女優陣だけの関西弁による「十二夜」でした。昨年は兵庫県立ピッコロ劇団が男優のみで演じています)
7月~8月の国立文楽劇場では、シェイクスピア最後の大作『テンペスト』を翻案した『天変斯止嵐后晴(てんぺすとあらしのちはれ)』が上演されます。領地を奪われ孤島に追われたミラノ公が魔法の力を得て簒奪者(さんだつしゃ)に立ち向かうドラマを、わが国の大名同士の権力争いに置き換え、浄瑠璃に翻案しました。量感あふれる義太夫節の特性を活かしたものとなっています。関係者は「文楽の総力を挙げ、シェイクスピア作品の決定版にしたい」と意欲を燃やしています。
)簒奪者=政権や天皇、帝王の位を奪い取ること

 ■『ロミオとジュリエット』は『悪因縁』

ところで、そんなシェイクスピア劇を、日本で初演した都会が大阪だったということを御存知でしょうか。
明治18年(1885)4月、シェイクスピアの喜劇『ベニスの商人』が『何桜彼桜(さくらどき)銭世中(ぜにのよのなか)』という外題で翻案されて大阪朝日新聞に連載が始まりました。これが翌月には道頓堀・戎座(のちの浪花座)で芝居になり、好評を博したのです。作者の名は宇田川(うだがわ)文(ぶん)海(かい)(1848~1930)。主演は、明治期前半に実川延若(初代)と道頓堀の人気を二分した、上方歌舞伎の名優、中村宗十郎(1835~1889)。
これがまもなく道頓堀・朝日座で少し脚本を変えて上演され、芝居町の道頓堀でシェイクスピア劇が競演される事態となりました。シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』も『悪因縁』という名で翻案されて繰り返し上演され、人気を博しました。
そんなわけで、私はイギリス人に会えば必ず「シェイクスピアを日本で初演したのは大阪」という話をするのですが、イギリス人はシェイクスピアを自慢にしていますから、大阪を見直してくれます。

 ■翻案劇の上演が可能となったのは、関西の演劇文化と市民言葉の伝統

その本邦初のシェイクスピア劇より、さらに百年ちょっと前。近松半二(1725~1783)の書いた『妹背山(いもせやま)婦女(おんな)庭訓(ていきん)』が、人形浄瑠璃として道頓堀・竹本座で初演され、まもなく道頓堀・中の芝居(のちの中座)で歌舞伎に移されました。現在も歌舞伎や文楽でよく上演される人気演目で、三島由紀夫がことのほか愛したドラマですが、これを道頓堀の角の芝居(のちの角座)で観劇したシーボルトが、『ロミオとジュリエット』によく似た筋書きだ、と友人に手紙を書き送っているのです。不和だった二つの名家が若い恋人たちの犠牲により和解するという筋書きが共通しているからでしょう。一説によると、『ロミオとジュリエット』がイギリスからオランダへ渡り、オランダから長崎経由で大阪の芝居へ移植されたというのですが、真偽のほどはわかりません。

 東京の歌舞伎界では松本幸四郎家が代々シェイクスピア劇に挑んできましたが、それにしても、明治十八年に大阪で歌舞伎俳優たちにより上演されたシェイクスピア劇というのは、どんな言葉で演じられたのでしょうか。今の東京標準語は当時まだ成立していなかったわけで、おそらくは江戸時代に確立した大阪の浄瑠璃言葉で演じたと想像されます。
そういえば、松竹新喜劇を創設した二代目渋谷天外(1906~1983)もモリエールの喜劇『守銭奴』を翻案上演しましたし、劇団神戸が女流義太夫を伴奏に用いたモリエール劇の試みも好評でした。
関西に長い演劇文化と市民言葉の伝統があればこそ、さまざまな翻案劇の上演が可能となったのです。

さて、「喜劇」という日本語が関西でうまれ百年以上たちました。
明治期の日本人がcomedy(コメディ)を「笑劇」ではなく「喜劇」と訳したのは正解だったと思われます。言葉の解釈に広がりが出て、わが国の近代演劇はそれだけ豊かになりました。

 ■すぐれた古典悲劇が教えてくれる人間世界の真実

しかし、tragedy(トラジェディ)を「悲劇」と訳したのは、どんなものでしょう。現代の日本人は「」という言葉にセンチメンタルなイメージを喚起されるため、ややもすると、お涙頂戴ふうの印象が先行してしまいます。しかし、演劇の原点とされる古代ギリシャ悲劇や、今日もどこかの劇場で上演されているシェイクスピアの悲劇、あるいは、平家の武将・平知盛の壮絶な最期を扱った『義経千本桜―大物浦(よしつねせんぼんざくら-だいもつのうら)』のような古典悲劇を観るに、これだけの人間的魅力をもった主人公なら、もうこのように滅びていくしかないのではないか、というふうに得心させるスケール感があるのです。もっと巧く立ち回っていたら、こんな悲しいことは起こらなかったのに―といった月並の感想を抱くのが馬鹿々々しく思えてくるほど、圧倒的な絶対的な感情で観客の心を満たしてくれるのが、真のTragedyだということです。それは、悲しい劇というより「運命劇」と呼ぶのがふさわしいと、小林秀雄が説いたのもむべなるかなと思われます。
いくら先回りして先手々々を打ったつもりで生きてみたところで、人生の全体像を把むことはできません。苦難のなかへ巻きこまれてこそ人生の真実を知る手がかりもあるからです。平知盛に「見るべきものは見つ」と人生の最期に言わしめたのは、「運命愛」といってもよい巨大な精神の輝きでした。人生と真っ向から切りむすぶことでしか垣間見ることのできない深淵というものがあり、そこでしか人間世界の真実を把みとることはできないということを、すぐれた古典悲劇は教えてくれているのです。
自分では何もかも心得ているつもりでいながら、勝者も敗者も、無我夢中で歴史の波に翻弄され、時代の彼方へと押し流されていく―そんな主人公たちの運命的な姿に私たちは心うたれます。それは、客観的・分析的に歴史を俯瞰するだけでは決して得られない感動であり、人間という(ドラマ)の内側に入り込んで歴史を理解しようとする者だけが手にしうる特権といってよいでしょう。
深く人生を味わうことは、それだけの精神のエネルギーが求められるということになります。

■河内厚郎『十二夜』『テンペスト』の見どころを語る


6月24日(水)午後7時~8時半、リビングカルチャー倶楽部大阪教室(大阪駅前第四ビル19階)で、河内厚郎のおもしろ伝統芸能講座「シェイクスピア劇の本邦初演は大阪だった!」を開催します。東西の歌舞伎界における翻案劇上演の歴史をたどり、『十二夜』『テンペスト』の見どころを語ります。

連載第4回(2009/5/15公開)世界に名を轟かせた中之島・フェスティバルホール


半世紀にわたり、日本を代表するホールとして国内外に名を知られた、中之島のフェスティバルホールが、建て替えのため閉館しました。
五年後の再開場が待たれます。

このホールが世界に名を轟かす契機となったのは、バイロイト祝祭劇場の引っ越し上演ともいうべき「バイロイト・ワーグナー・フェスティバル」でした(一九六七年四月、大阪国際フェスティバル)。ワーグナーの聖地バイロイトを大阪に再現した『トリスタンとイゾルデ』『ワルキューレ』の二作が、大ワーグナーの孫ヴィーラントの演出、ブーレーズ、シッパースの指揮、歌手にヴィントガッセン、ニルソン、ホッターという、本場ドイツでも容易に実現しない豪華陣で上演されたのです。前年に逝った天才演出家ヴィーラント最後の舞台ともなりました。特殊照明器具が五十台輸入され、高額チケット料金にもかかわらず内外からオペラファンが集結。この空前の舞台にふれたことで、以後の人生が変わってしまったという人が私の周囲にも少なからずいます(歴史学者の笠谷和比古氏など)。

大阪国際フェスティバル(一九五八~)は、ザルツブルクやバイロイトが組織するヨーロッパ・フェスティバル連盟に加盟した東洋唯一の音楽祭でもあり、日本各地の音楽祭の原点となりました。

このホールは、能や狂言、歌舞伎舞踊などの古典芸能を、近代的な舞台機構の中で演出してきた歴史を持っています。

閉館が目前に迫った昨年の十二月二十一日、フェスティバルホールの最後を飾るにふさわしく、狂言界の名門、茂山千五郎家、善竹忠一郎家、野村万蔵家、野村又三郎家の、四家による狂言会が行われました。 

■狂言界の名門、善竹家の三人のプリンスが活躍

大阪を本拠地として活躍する狂言の一門といえば、まず大蔵流の善竹家があげられます。善竹隆司・善竹隆平・善竹忠亮という三人の、眉目秀麗で、将来を嘱望されているプリンスが、大阪能楽会館(中崎町)・大槻能楽堂(上町)・山本能楽堂(徳井町)などで活躍しています。
先述の最終公演を観た朝日新聞の西本ゆか記者は、「冒頭の若手トークコーナーで、隆司は紋付き袴に赤いチェックのスリッパ姿で現れた。仲間の激しいツッコミにも笑顔を崩さぬ悠然たる姿に客席は爆笑、場は大いに温まった」と報告しています。
善竹隆司の演出により、手塚治虫・原作「ブラック・ジャック」を狂言に仕立てる試みも好評を博しました(昨年十二月、宝塚ソリオホール)。隆司・隆平の兄弟は大阪文化祭奨励賞を受けており、隆平は文化庁芸術祭新人賞も受賞しています。二人の従兄弟に当たる善竹忠亮は、他ジャンルの人々とのジョイント企画で、シェークスピア劇の主役にも挑むなど意欲を見せています。(狂言には大蔵流と和泉流がありますが、和泉流では小笠原匤氏が大阪を本拠に活動しています)

善竹隆司

善竹隆平

大阪能楽会館

山本能楽堂

■初の人間国宝に認定された善竹彌五郎

善竹という姓は、能楽を大成した世阿弥(一三六三~一四四三)の女婿、金春禅竹(一四〇五~一四七〇頃)からとったもので、禅竹の「禅」に「善」の字を当てた時期もありました。現在の善竹一門の祖は、狂言方として初の人間国宝に認定された、善竹彌五郎(一八八三~一九六五)です。もっとも正統派の狂言を伝承していると謳えられた名人です。彌五郎の『業平餅』は、もしも貴公子・在原業平が歳をとったらなるほどこんな感じだったろうなと思わせるような、繊細かつ写実的な芸でしたが、骨太で力強い一面もあわせ持っていました。愚直なまでの芸に対する誠実さの持ち主であった証拠には、たとえば『太刀奪』で、泥棒を捉まえ縄をなうところでは、ともかく縄をなうことに専念し、刀で突き飛ばされて転がるところなども、人間のありのままの無様なさまでなければいけないからと、カッコつけずに、みっともなく転がったと伝えられます。

「近ごろの狂言は茶番みたいだが、
昔はもっと真面目なもので、
真面目な中から出てくるユーモアだった」

と、生前の彌五郎はよく語っていたそうです。「狂言」は、ただ単に滑稽な喜劇というだけでなく、他人から見れば他愛もなく映るようなことに、大のオトナが本気で取り組んでいるという、その真実の姿に心うたれるものがあるからこそ、笑いの中に感動があるのでしょう。人は「世間」という劇場のなかで何らかの役を演じ分けて生きています。「らしさ」という仮面をつけることで、世の中と折り合いをつけて生きる術を身につけるのですが、そんな一般人から見れば、真剣さが嵩じて仮面を脱ぎ捨て、思いが凝結して一心不乱になってしまった人(物狂い)の姿に、一種の「おそれ」にも近い敬意を抱くものではないでしょうか。

この名人・彌五郎の長男が善竹忠一郎(先代)、次男が大蔵流の家元となった大蔵彌右衛門、三男が善竹玄三郎、四男が善竹幸四郎、五男が東京で活躍した善竹圭五郎で、玄三郎以外は故人となりましたが、子孫は関東と関西に分かれ、年に一度、大阪と東京で「善竹狂言会」を開いてきました。
なお、善竹彌五郎の夫人は、新撰組隊士、伊東甲子太郎の、姉の子孫に当たるということです。

■「機(チャンス)は気なり」と言った世阿弥

古典芸能に限らず、私は生の舞台に接する体験というものを、「気」をキーワードにして考えています。

世阿弥は「機(チャンス)は気なり」と言いました。

「気」とは、すなわち「息」。息は「呼吸」を指します。すぐれた舞台芸術に接した観客の心は、おのずと舞台のほうに吸い寄せられていくものです。客席の呼吸は、名優や名人の強靭な息に引っ張られていき、やがて劇場全体が一つの息となったクライマックスの場面になると、そこに居合わせた全員の息が一瞬止まるのです。その瞬間、場内は一つの生き物と化します。∧個∨を超えて高みの世界へと引き上げられた観衆は、観劇中もっとも高揚した時間を共有することになります。

生きとし生ける者は、緊張したとき、重大な決断をするとき、息を止めます。「息を詰める」「息を殺す」「息を呑む」「息を潜める」...これらの表現は、どれも呼吸を停止する動作を意味します。緊張感を持続して日々を真剣に生きている者ほど、息を止める動作も多くなるわけですから、緊張が解けた際に吐く息も当然に大きくなります。劇場においても同様で、のぼりつめた場内の緊張が解けたとき、人々は大きく息を吐いて、どよめきのごとき歓声が場内に洩れるというわけです。

息の大きい人ほど多くの人を惹きつけるとよく言われるのは、日頃から己の存在を賭けて生きる、そのテンションの高さに人々が引っ張られるからでしょう。「生き」も「活き」も「勢い」も、つまるところ「息」の使い方にかかってくるということです。内臓の中で、人間の意識によりコントロールできるのは、呼吸を司る肺しかないのですから。

■すぐれた舞台にふれることで、自分の人生が大きくなる

私はNHKテレビで舞台中継のナレーション役を務めたとき、日頃から本格的な呼吸訓練をしていない、素人ナレーターの息のはかなさを思い知らされたことがあります。対談番組とことなり、一人っきりで解説する場合、息つぎの間がなかなか取れず、こっそり息をすると視聴者に気づかれてしまうのです。それは一九九〇年、現・坂田藤十郎が前々名の中村扇雀の時代に上演した『堀川波の鼓』(近松門左衛門・作)を舞台中継した折のことで、この折の扇雀と相手役・中村富十郎の演技は見事なものでしたから、よけいに自分の非力を痛感させられたものです。

歌手や俳優はもちろんのこと、アナウンサーや声優といった職業の人々も身にしみてそのことを知っているはずで、ここぞというところで一気に、つまり一息で勝負をかけることのできる、プロの芸人の水準の高さに、あらためて思い到った次第です。
とりわけ感心させられたのは、扇雀や富十郎の、息の長さ、雄大さで。ほとんど息つぎをしていないかのように見受けました。だからこそクライマックス一息の芝居ができるのでしょう。

すぐれた舞台にふれることは、自分の人生を大きくしていくことにもなると思うのです。